Part,88
「シーナ」
再び名を呼ばれ顔を向ける。名を呼んだのは栗色の髪の少年だった。
黒の瞳が明るい茶色の瞳を、その先にあるものをとらえている。
少年が見ているのは少女の背中にあるもの。
少女の背中にあるもの。それは藍色の――翼。
もう駄目だ。終わってしまった。
はりつめていたものが切れたかのように、まりいは地にへたりこむ。
足元で何かが壊れる音がした。それは今まで必死につちかってきたもの。人にとってはささいなことかもしれない。だが、まりいにとっては何よりも大切な人との、仲間達との絆。
これから言われるであろうことを予測し、まりいはぎゅっと目をつぶる。
「ケガはないのか?」
だが少年の口から紡がれたのは少女の予想外のものだった。
「……大丈夫」
「だったら立てるな。行くぞ」
普段と同じ、もしくはそれよりもそっけない声と共に少年は手をさしのべる。
「見えてないの?」
ショウの手を握るくことなく、まりいはつぶやく。
「見えてる」
「驚かないの?」
「驚いてる」
「だったら!」
少年の顔を見上げ、まりいは叫んだ。
「どうして拒絶しないの! 私、ショウとは違う生き物なんだよ?」
少女の激昂に少年は黙したままだった。
「どうして平然としていられるの? 私はお父さんの仇の娘かもしれないんだよ?」
違う。言いたいことはそんなものじゃない。
だが、口からあふれ出るものは感情の渦。一度こぼれてしまったものは簡単には止められない。
「私……っ!」
それ以上は言えなかった。
「お前、変わったようで、そういうところはまったく変わってないよな」
少年の声に少女は応えることができない。
「一人で自己完結して、言うだけ言ったらすぐに姿を消そうとするだろ。明らかにお前の短所だ」
宙に藍色の羽根が舞う。
どうすることもできなかった。いや、体がいうことをきかなかったのだ。
「残された相手の気持ちも少しは考えろ」
どうして私は彼の腕の中にいるんだろう。疲れているから? 違う。それだけじゃない。
どうして彼の腕はこんなにも力強いんだろう。私が女だから? 違う。それだけじゃない。
「シェリアと同じだ」
「シェリア?」
友人の名前にまりいは顔を上げる。そこには真面目な顔をしたショウの姿があった。
「いるとかいらないとか、人に言われただけでぐらつくほど、お前の存在は無意味なものなのか?」
「だって……」
視線をそらそうとするまりいをとらえ、ショウは言葉を連ねる。
「だったら質問を変える。俺はそんなに頼りないか?」
「違う! そうじゃない」
「違わないんだろ。だから一人で突っ走ろうとするんだろ。俺から言わせればそっちの方がよっぽど危なっかしい」
そう言ったショウの顔は心なしか怒っているようで。
「だから俺も行く」
憮然とした面持ちのまま少年は続けた。
「放っといたら何をしでかすかわかったもんじゃない。だったら側にいて監視していた方が手っ取り早い」
「私、犬や猫じゃない」
「似たようなもんだろ。いや、扱いやすいだけ犬や猫の方がまだましだ」
「私、珍獣じゃない!」
「似たようなもんだろ!」
あまりな発言に、少年の腕の中、まりいは声を荒げる。だがそれはショウも同じこと。腕の力をゆるめぬまま、まりいに声をあげる。
沈痛な雰囲気が嘘だったかのように声をかけあう二人。それははたから見れば子供のケンカだった。
「とにかく。俺はお前についていく。フロンティアのこともあるしな」
少年が主張したのは不毛なやりとりが終わりを迎えたころ。真面目な面差しにまりいは瞳をそらしながら応えた。
「危険かもしれない」
「それは俺のセリフ。そもそも俺の旅にお前がくっついてきたんだろ。結局は同じなんだ。逆になっても構わない」
「だけど……」
「だけども何も知ったことか。何があってもついていくからな」
少年の瞳にゆるぎはなかった。
そもそもショウ・アステムという人間は元からこうなのだ。ぶっきらぼうで、そっけなくて。でもちゃんと人を見ていて。
大きく息を吸うと、まりいはありったけの声で叫んだ。
「勝手にしろっ!」
耳をつんざぐような大声。言われた当人は一度だけ呆けたような顔を見せるも、すぐに不敵な笑みに変える。
「勝手に、する」
それは昔と全く同じやり取り。そして言うものと言われる者が違う、確認の合図だった。
「まずは皆を捜そう」
ようやく体を離し、ショウが切り出したのはしばらくたってからのことだった。
少年の言葉に止まっていた思考がようやく普段のそれにもどる。自分のことを認めてくれて、もう一人の友人に傷つけられた少女。彼女は、他の人達は無事なのか。
「その必要はありませんよ」
声はすぐそばから聞こえる。視線をめぐらせば金色の髪の神官の姿があった。
「どうしたんです? 何か見えてはいけないものでもあるんですか?」
まりいをかばおうとする少年にアルベルトは軽く目を見はる。けれど、それはほんの少しの間のこと。視線を二人から別のものに変えると、かいがいしく治療をはじめる。
視線の意図するものがわからず首をめぐらせて、ショウはまりいに耳打ちする。まりいもそれにならい――二人、安堵の息をもらす。背中にあったはずの翼はすでに消えていた。
「何かあるのならおっしゃってください。申しわけありませんがシェリアのことで手一杯ですので」
「そうだ、シェリアは……」
青年の視線の先にあったもの。それは傷ついた公女の姿だった。
「気絶しているだけです。ですが、どこか別の場所で休ませた方がいいでしょうね。
もう一人の方は姿が見えませんでした。見かけたら後ほど声をかけておきます」
よどみなく話す様は、少し前と全く変わりがない。
「そういうわけで、申しわけありませんが私達はここで退散させてもらいます。何かあればミルドラッドに連絡をくださればすぐに駆けつけますので」
「あの――」
公女を横抱きに立去ろうとする背に、まりいは慌てて声をかける。
「これから大事な用があるんでしょう? でしたら部外者と足手まといはいないに限りますから。
シェリアのことは任せてください。これでも私の妹ですので」
そう言われては何も言えず。けれども黙って見送ることもできず。だから、まりいは一つだけ伝言を残すことにした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「そろそろ目を覚ましてもいいんじゃありませんか?」
二人の姿が見えなくなった頃、神官は妹に語りかけた。
「……いつからばれてたの?」
「はじめからです」
兄の腕の中で公女はしぶしぶ目を開ける。
「お二人からあなたに伝言です。『ありがとう』だそうですよ?」
「知ってる。聞いてたもの」
アルベルトの服をつかみ、シェリアは弱々しくつぶやいた。
「アタシ、やっぱり足手まといなのね。二人を助けるつもりで結局はあなたに助けられてるもの」
はじめは友人達の雰囲気にすぐには入れなかった。入った後も交わした言葉は少しだけ。
結局、二人は自分達だけの力で困難を乗りこえたのだ。
「それはあなたが決めることじゃない。少なくともお二人はそうは思ってなかったはずです」
「でも」
なおも言い募ろうとするシェリアを片手で制すると、神官は穏やかに告げた。
「それくらいにしておきなさい。怪我をおっているのは事実なんですから。
こういう時は体力を回復させるに限ります。あなたがそんな調子では二人も心配するでしょう?」
そう言ったアルベルトの笑みはとても優しげで。
「うん。そうする……」
二人とも、どうか無事で。
胸中で祈りをささげると公女は今度こそ本当の眠りについた。