Part,87
「なぜ貴女はそうまでして人と戯れようとするのか」
声には何の感情も含まれていなかった。
雪色の髪に夜空の瞳。それに映しだされるのは焦げ茶色の髪の少女。
「彼女の意思じゃないのかい? 好きにさせてやりなよ」
「汝(なんじ)には聞いておらぬ!」
ルシオーラの声をかき消すように少女が声をあげる。
否。感情ならばあるのかもしれない。ただし、あるとすればその感情の名はまぎれもない憎悪。
冷たい夜の双眸(そうぼう)がまりいに向けられる。
「やはり今の貴女は我にとって無用なものだった」
イラナイ。
ヒツヨウナイ。
それは自分を否定する言葉。
冷たい感情に、まりいの胸が痛む。だが、空都(クート)に戻ることを決めたのは自分なのだ。後戻りするわけにはいかない。
「もう一度、眠りについてもらう」
雪色の瞳と髪が空をなすものに形成されていく。
空色の髪と瞳。背中には純白の翼。少女の名は風鳴(かざな)。翼の民と呼ばれ、同時に天使と呼ばれるもの。そこにはかつてステアと呼ばれていた少女の面影はない。
「案ずることはない。次に目覚めた時は必ず本来の主に戻っているのだから」
風鳴が起こす行動は容易に理解できた。
記憶にあるのは傷ついた自分の腕と姉の涙。悲しくても辛くても、あんな光景をくりかえさないためには正面からぶつかるしかない。覚悟を決めようとしたその時、
「勝手なこと言わないで!」
天使の言葉をはねのけたのは金色の髪の少女だった。
「いらないとか必要ないとか、それはあなたが決めることじゃないでしょ。急に現れて、変な言いがかりつけないでよ!」
夜空の瞳をにらみつけ、シェリアは声高らかに叫んだ。
「我だけではない。我々なのだ」
「一人でも複数でも同じよ! あなたにはいらなくてもアタシにはいるの!」
冷たい視線にも少しもひるむことなく言い放つ。そんな公女の言動を周囲は黙って見つめるしかなかった。
一同はただただ驚くしかない。どうしてできるだろう。何の力も持たない少女が天使に――人とは異なるものに怒号するなんて。
特に、一番驚いたのはまりいだった。
思うように言葉がでない。どうして彼女はそんなことができるのだろう。何の見返りもなしに、どうしてそんな――涙が出るほど温かいものをくれるのだろう。
「汝は主の何なのだ」
風鳴の問いに、シェリアは不敵に笑った。
「決まってるじゃない。アタシはシーナの友達よ!」
公女の後姿を、声をまりいはかみしめるようにして聞いていた。
「友達が困ってるからここに来たの。アタシも助けてもらったからここに来たの。悪い?」
そうだ。彼女は友達だ。
シェリア・ラシーデ・ミルドラッド。彼女はまりいが空都(クート)に来て初めてできた友達。大切な――仲間。
沈黙があたりを支配する。
「我は天使だ。そのようなものはいらぬ」
そう言うと、雪色の髪の少女は公女にむけ手をかざした。
瞬間、まりいの取る行動は決まった。
迷いはなかった。
正確にはなくなったと言った方が正しいのかもしれない。たくさんの戸惑いや恐怖を金色の髪の少女が一蹴してくれたのだから。その友人が身の危険にさらされようとしているのだ。放っておけるはずがない。
「風よお願い!」
声と共に緑色の短剣を取り出す。それはショウの手を通してルシオーラからまりいに与えられたものだった。
振りかざせば出てきたのは緑色の少女。一つうなずけば、少女は瞬時にして弓に姿を変える。
紅と緑の光がぶつかりあい、やがて消える。
「なぜ貴女はそこまでするのだ」
風鳴の問いにまりいは答える。
「決まってるよ。友達だから」
それは、少し前に友人が教えてくれたこと。
友達が困っている。仲間が危険な目にさらされようとしているのだ。
「だからおねがい。引いてください」
ならば、助けないはずがない。
相手からの声はなかった。
「ともだち……」
返事はない。空の瞳を宙にさ迷わせ、呆けたように言葉を唇にのせている。
「う……あ……」
「……ステア?」
様子がおかしい。声をかけようとしたその時、
「シェリア!」
あれは誰の声だったのか。
紅い光が辺りを包み込む。
声の方を振り向けば、そこには地に伏す友人の姿があった。
何が起こったのかわからなかった。
「余計なことを吹き込むからだ」
冷然とした声の下に横たわるのは自分を幾度となく救ってくれた者の姿。
ふわり。
天使の手に再び紅い光が灯る。
「やめてーーーっ!」
必死だった。
声をあげると同時にはしる背中への激痛。
紅い光を空色の光が包み込んだ。
後ろは見なかった。認めることが、確認することが怖かったから。
「やめてステア。お願いだから」
それでも、やらなければいけないことがある。
「私の大切な人をこれ以上傷つけないで!」
それは、以前少女に投げたものと同じ言葉。
はらり。はらり。
目の前に、小さくて軽い何かが宙を舞う。だが、まりいはそれを見る――認める余裕はなかった。
「ちが……」
それは、同じ人物の声。
「我……すてあ、シーナ傷つけたくな……」
だが、明らかに違う声だった。
「いや……」
それは泣きじゃくる子供のようで。
「うるさい。だまれ……っ」
それは苛立つ大人のようで。
「そこまでだよ風鳴。主になるべき者をこれ以上傷つけてはいけない」
天使とまりいを止めたのは、金色の髪の少年だった。
「お前まで我らを裏切るのか!」
苦痛の表情で、だが声だけは冷淡に少女は彼を見た。
「裏切るつもりはない。けれど、協力するつもりもない」
「ならばどけ。目ざわりだ」
風鳴の怒気にも、彼は、黄砂(こうさ)はひかなかった。
「どくわけにはいかない。僕は君を止めにきたのだから」
金色の髪に風鳴と同じ空の瞳。夜空の瞳をみつめ、黄砂は静かに口を開いた。
「もうやめよう。君が空に捕らわれる必要はない」
長い時間が流れた後。
「我は天使なのだ」
そう言ったのは少女だった。
「天使は主を守るのみ。我は、神の命を全うするのみ」
声と共に、淡い光が辺りを包む。
目を開けるとそこに二人の姿はなかった。
後にはただ、風が吹くのみ。
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終わったのだろうか。
静かになったあたりを見渡しながら、まりいは呼吸を整える。
「シーナ」
親しい者の声に体をこわばらせる。
終わってなどいない。そこにあったのは、あえて目をそらしていたもの。あえて、認めまいとしていたもの。
宙に、地に舞うのは藍色の羽。
これが現実だった。