その六。虹の向こうに見えるものは
(「ずいぶんと可愛らしい脚色だな」)
二人きりの部屋で帰結の精霊がつぶやく。
(「重要な部分が大幅に書き換えられている。まるでおとぎ話だ」)
「人間に話すにはおとぎ話で十分だよ」
そもそもあの一件はオレの黒歴史なんだから。キレて見境なくなるまで暴れるなんて一体どこの暴君なんだか。しかも長年にわたって語り継がれるなんて屈辱以外の何物でもない。
だから人間による拘束や拷問が長期にわたって続けられたとか。テティスという女の子が本当は孤児で、国の間者として父親に育てられていただとか。あまつさえ理性を奪われたオレが地上の抗争に利用され見かねた父親に連れ戻されたなんてこと、今となってはどうだっていいことだ。
(「おまえにとっての真実はどこからどこまでなのだ?」)
「人間の女の子に助けられて逢瀬(おうせ)を過ごしたことかな」
あとはどうでもいいと告げるとお前らしいと笑われた。彼女の素性や陸の世界の情勢なんて関係ない。テティスという女の子に命を救われた。それだけがオレにとっての真実。
口づけを交わすこともなかった。抱きしめることさえかなわなかった。
夜明けの海岸で二人で音楽を奏でる、ただそれだけで十分だった。
――幸せだった。
(「父親に勘当されて呪いを受けた? 海を離れたのはお前自身の意志だろう?」)
「勘当されたのは本当だよ。オレが海にいたら父上の立場が危うかったから」
ただでさえ抗争だらけの時代だったんだ。ましてや敵の多い父親だったのにオレがのこのこ帰ってくればそのことを引き合いにどんな仕打ちをさせるかわかったもんじゃない。
オレがケジメをつけます。
だから、オレを勘当してください。
(「考えを改めるまで帰ってくるなと言われたそうだな。それはきっと、父親なりの優しさだろう」)
「そうであってくれることを願いたいね」
海を、父親の側を離れることを決めたとき、姉であり母親代わりの女性からは何故あなたがそのような目にと狼狽され妹からは仕方ないわねと苦笑された。父上とは本当に長いこと顔をあわせてない。妹からはいつも通りとの返答が返ってくるから元気にはしているんだろう。
次に父親と顔をあわせるとき。あの頃から少しは成長した姿を見せられるんだろうか。
(「長年の放浪の末に、想い人の行きたかった場所にたどり着いた気分はどうだ?」)
友人の声に首をかしげる。
「……想い人、だったのかな」
(「初恋ではなかったのか」)
てっきりそうだと思っていたとシリヤが初めて意外そうな顔をする。オレ自身よくわからなかった。ただ彼女に笑ってほしかった。それだけだった。
――人間を嫌いにならないで――
彼女の言葉がなかったら、これほどヒトに執着することもなかったんだろう。良くも悪くも彼女がオレに与えた影響は大きかった。
「本当はよくわからないんだ」
あれだけの仕打ちを受けたんだ。人間が好きかと問われれば嘘になる。けれど、オレの命を救って最後には身を挺して守ってくれたのもテティスという人間だった。
オレを利用したかったのならもっと簡単なやりかたがあったはず。なのにテティスは十年という人間としては決して短くはない歳月をオレに費やしてくれた。
彼女はなんのためにオレと同じ時間を過ごしたんだ?
――行ってみたかったなぁ。ティル・ナ・ノーグに――
彼女があんなにも見たがっていたティル・ナ・ノーグにかかる虹。そこへ行けば彼女の伝えたかったこともわかるのだろうか。
(「お前の中では終わっていなかったのだな。難儀な奴だ」)
「幸いなことに考える時間はいくらでもありますからね」
本人に直接聞けばいいことくらいわかっていた。でも新しい傷を治すのに時間がかかったのと呪いのことがあったから会わずじまいに終わってしまった。
怖かった。
会って彼女と何を話せばいい?
普通の人間ならオレのことは綺麗さっぱり忘れてしまう。彼女も例外ではないだろう。
面と向かって知らないと言われてしまったら、あの日々はなかったことになってしまう。そんなこと、果たしてオレに耐えられるだろうか。
そう考えると先に進まなくて。ここまでたどり着くのに長い月日を要してしまった。放浪の末に幾人もの女をはべらせておくあたり確実に父親の血を引いているなと不本意なことも指摘されたけど。人聞きの悪いことは言わないでほしい。ただでさえ他の人間、特にさっきまでいたフォルトなんかに聞かれたらどんな反応をされるか先が思いやられる。
人間に比べれば遙かに寿命は長いですからね。陸や海を放浪している時にたくさんの種族とお近づきになった。時には声を重ね、時には。
「まだ、残っているんだ」
それでも胸の中にくすぶるのは彼女との記憶。周囲にとってはおとぎ話になってしまっても、オレにとってはつい先日のことのように鮮明で。
実は呪いの効果は年々強まっている。ここ(ティル・ナ・ノーグ)に来る前は人間はもちろんのこと同族であるはずの精霊にも存在を忘れられようとしていた。今、呪いの症状が比較的落ち着いているのは帰結の精霊によるものだ。初めて会ったとき『呪いを解いてくれるかな』冗談交じりで提案して『妖精の息子のおまえがそれを言うのか』という返答。互いに時間をもてあましていたし茶飲み友達になるという条件付きで現在の形にいたる。
たくさんの声や心を重ねても、みんなオレからすり抜けてしまう。人間を見限ればとうの昔に呪いは解けていたのかもしれない。けど、人間を嫌いにはなりきれなかった。彼女との日々を否定したくなかった。
(「辛かったな」)
そんな声をかけられたもんだから声の主をまじまじと見つめてしまう。
紅茶を飲んで一息ついて。再び友人の薔薇色の瞳をのぞき込む。よし。気持ちは整った。
(「どうした?」)
顔をのぞきこむシリヤに向けて手をのばす。彼女は精霊だから実体がない。だから手を差し伸べてもするりと通り抜けてしまう。
そんなことは熟知しているけれど。
「君に実体があればよかったのに」
手を彼女の頬の位置にあてたままつぶやく。そうすれば、このまま抱きしめることができたのに。
(「我に実体がなくてよかったな。あれば確実におまえを蹴り倒していたぞ」)
あと普通の人間なら今の表情と仕草でおちているのだろうなとも言われた。意味がわからず問いかけると無自覚なぶんだけタチが悪いと容赦ない返答。どんな時でも容赦なく、かつ冷静な対応をしてくれる。だからこそオレは彼女と友人でいられるんだろう。
ため息をつくとふわりと近づいて、オレの頭を抱えこむ。精霊には実体はない。けれど海精(ワダツミ)のオレには彼女のかすかな温もりを感じとることができる。
(「これでいいのか」)
「……ありがとう」
もう少しだけ、このままで。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「雨はやんだようです」
新しいお茶を準備したフォルトゥナートが再び姿を現す。そう言えばそんな話をしていたんだっけ。
「確認しておきたいことがあります」
お茶を手渡しながら人間の友人が問いかけてきた。
「先ほどの話に出てきた女性のことです。テティスというのは彼女の愛称ではありませんか?」
「そうだよ。よくわかったね」
正式な名前は別にあったけど。彼女自身がその呼び名を使っていたからオレも自然とそう呼ぶようになった。
「彼女の本当の名前は――」
『テティリシア』
オレの声とフォルトの声が重なる。
「……なんで」
どうして彼が彼女の本当の名前を知っているんだろう。ちゃんと伏せて話したはずなのに。
やはりそうでしたかと前置きをして友人は種明かしをはじめた。
「先ほどの話には続きがあるんです。滅んでしまった王国には一人の少女がいて、敵国の王子と結ばれぬ恋をしていたと」
そう言って部屋の窓を開ける。少女はテティスを指すとしたら王子はもしかしなくてもオレのことなんだろうか。続きを促すと彼は淡々と言葉を紡ぐ。
「雷は『リールの怒り』ならば雨は『あなた(リザ)の嘆き』なんでしょう。ですが、知っていましたか? 雨の後には虹がでるんです」
彼にならって視線を窓の外に向ける。雨はやんでいて空には虹がかかっていた。
「親を失い王子とも離ればなれになった少女は単身このティル・ナ・ノーグにやってきたそうです。王子との約束を果たすために。
少女は暁にかかる虹に祈りをささげ続けました。ですが約束は果たされることはなく、年老いた彼女は周りのものに伝言(ことづて)を残し息を引き取りました。それ以来、この時間帯にかかる虹は『テティリシアの虹』と呼ばれています」
――いつか、世界で一番綺麗なものを二人で見に行こう――
「……その伝言は?」
声が震えた。彼女はオレよりも先にここに来ていた!?
オレの動揺が伝わったんだろう。友人はオレを見据えてこう言った。
「『あなたのことを忘れない』」
頭が真っ白になった。
「あまり人間を舐めないでください。大切な想いがここにあれば、記憶なんてそう簡単に忘れられるわけがないんです」
ましてやそれが想い人のものであるのなら。自分の胸を軽くおさえながら人間の友人が言葉を紡ぐ。
「は……は」
まさか、そんなオチが待ってるとは思ってもみなかった。てっきり忘れられたとばかり思っていた。まさか覚えていてくれるなんて。
(「これだから人間は面白い。おまえもそう思わないか?」)
シリヤがしたり顔でうなずく。確かにオレはテティスや目の前にいる人間を侮っていたのかもしれない。
忘れられるのが怖くて再会を拒んだオレ。でも君はオレとの約束を覚えていてくれたんだね。長い年月をこえて、こうして人間に言伝を残すまでに心にとどめておいてくれたんだね。
オレのことを想っていてくれたんだね。
今なら言える。オレは彼女のことを。
「愛していた」
人の姿で涙を流したのはこれが初めてだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
『お願い。人間を嫌いにならないで』
大丈夫だテティス。
オレは人間を嫌いにならない。
「フォルトゥナート。君はオレの友人でいでくれるかい?」
目尻に残るものをぬぐって右手を差し出す。
「君はオレのこと、忘れないでいてくれるかい」
「……善処します」
だからあなたも善処してくださいと握り返されて。努力するよと泣き笑いの顔で告げた。
どうしてだろう。
どうしてヒトはこんなにも愚かで、こんなにも不器用で。
「彼女からの伝言(ことづて)は届きましたか」
「うん。……綺麗だ」
虹に向かって手をのばしながらつぶやく。
「本当に。世界で一番綺麗な景色だ」
どうしてだろう。
ヒトはどうしてこんなに――いとおしいんだろう。
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