第八章「沙城にて(前編)」
No,12 エピローグ〜裡に眠りしもの
おれがやったんだよね。
ごめんね。たくさん傷つけて。
だからおれ、いい子になるよ。
いい子でいれば、だれも傷つけずにすむから。
だからおれ、――になるよ。
おれがやれば、みんな笑ってくれるんだよね。だれも悲しまずにすむんだよね。
《契約は完了した》
だけど、本当はいっしょにいたかったんだ。大切なひとたちとはなれたくなかったんだ。
ねーちゃん、にーちゃん。ついでにあいつも。
おれにはなくしたくないものがたくさんあったから。
ねえ、これってわがままなのかな。
《我はこの時をもって汝となる》
おれは我。
我はオレ。
オレは誰……?
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
嫌いなものがあった。認めたくないものがあった。
運命。神様。そして――
「お笑いだよな」
鏡に向かって皮肉げにつぶやく。窓の外には雪景色。あれからまだ時間はそんなにたってないらしい。
片方の世界で意識がなくなるともう一つの世界へ。この事態をこれほどありがたく感じたことはない。
アルベルトは地球に連れ帰った。正確には、気がつくと地球だったと言った方がいいんだろう。目が覚めたら諸羽(もろは)のアパートのベッドの上で、隣には二人が倒れていた。わけのわからぬままやったのは、二人をベッドに休ませること。
アルベルトの表情は、まだ苦痛に満ちていた。出血は止まったものの、後は本人の生命力にかけるしかないんだろう。もう一人の方はただの気絶。オレに巻き込まれたんだろーな。だったら悪いことをした。
二人を休ませると一人洗面台へ向かう。
蛇口をひねって頭を近づける。真冬の水はもうろうとした意識を覚ますのにもってこいだった。
「意外とメルヘンチックな格好だったんだな。これ」
空都(クート)製の上着にジーンズとシャツ。異世界に行く前となんら変わりない。問題はそれについたオプション。
瞳の色は空の色。
肩よりのびた同じ色の髪。極めつけは背中に生えた異様な物体。
「どーせなら、もっとヒーローらしい格好にしろっての」
手でさわると暖かい感触がある。強くひっぱると、ぶちっという音と共に引き抜けた。
真っ白な羽根。
鏡に映るのは自分の姿。頬をつねらなくてもわかる。さっき水をかぶったばかりだから。『水もしたたるいい男』って言葉があったよな。だったらこれはどうなんだろう。
「水もしたたる天使様……ってな」
空を模した天使。それが鏡に映った今の自分の、大沢昇の姿だった。
人生って何が起こるか本気でわからないよな。気づけば異世界どころの話じゃない。
前のように壁を殴ることはしなかった。正確にはできなかった。それだけの気力がなかったから。あまりにも唐突すぎて考えつかなかったから。
オレの嫌いなもの。それは天使。
そいつが大切な人達を奪っていったから。
そいつがオレの日常を変えてしまったから。
「この設定って便利だけど、ある意味不便だよな」
タオルでがしがしと頭をふく。水分を含んだ髪は体温を下げるのに充分だった。どうやらこのあたりの感覚は人外でも同じらしい。
片方の世界で意識がなくなれば、もう片方の世界へ。これって肉体的なピンチの時はもってこいだけど、逆を言えば常に意識が持続してるってことか。正直、かなりきつい。
空都へ行ったことも、セイルと再会したこともアルベルトに利用されていたということも現実ってことで。今、地球でこうしているのもまぎれもない現実で。正直、やりきれない。
キィ……。
「体、大丈夫なのか?」
開かれたドアに声だけ向ける。
視線は向けないようにした。見れなかった。
「そりゃ驚くよな。変わりすぎだっての」
声は震えてないだろうか。後ろ姿だけでも平静に見えてるだろうか。
余計なことばかり気にしてるオレは、すっげーバカでダサすぎる。わかってるはずなのに、口から出るのはどうでもいい話ばかりだった。しょうもないプライド。ただ一人に見せつけるために、ただ一人に悟られまいとするために。
「もう少ししたら、また空都に戻ろう。シェーラ達を捜さなきゃな。それから――」
それでも必死だった。現実逃避をしたかったから? カッコ悪いところを見せたくなかったから? 多分両方なんだろう。
気配を感じたのはそんな時。
「少しだけ、休もう」
背中ごしだから表情は見えない。
「……うん」
だけど、背中ごしのぬくもりならわかる。
いつもと違う感触は翼ごしだから。視界が歪んで見えるのは疲れているから。
いつもと違う感情は、まわされた腕が温かいから。涙が出そうなほど心に沁みたから。
そう思うことにした。
「シェリア」
名前を呼ぶと、翼ごしに体が小さくはねる。
「このこと黙っててくれる?」
翼ごしに、彼女がうなずくのがわかる。
「それから――」
言おうとして、口を閉ざす。
「これでいい?」
「……うん」
握られた手は、とても温かくて心に沁みた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
声がする。
我を呼ぶ声が。
一度だけ、聞いたことがある。心の声。魂の嘆き。
《クルシイ》
あれはいつの日だったのだろう。
この声は誰のものだ? 我はいつから眠りについた?
我を呼び覚ますのは誰だ。
《タスケテ》
もっとも近しく、もっとも――
「我は、ここにいる」
目覚めの時は、近い。