陽のあたる場所で
06:甘い言葉
光の先にあったもの。それは大きな橋だった。
正確には雨空の橋の上。『神の娘』ってやつは天使をつくることができても天気と場所を選ぶことはできないらしい。
雨が降っているからか周りには誰もいなかった。ただ一人を除いて。
「おれはここだ!」
橋の上にいたのは子どもだった。黒髪に黒目の男の子。背丈からして小学生だろうか。人の注目を集めるほどすごい容姿というわけでもない。それでもあたしの目をひいたのは小学生らしからぬ格好と小学生らしからぬ叫び声がしたから。
「つれてくなら、おれにしろ!」
雨にも関わらず声をはりあげて。空に向かって感情をぶつける様は遠目に見ても痛々しい。
近づいていくと子どもの輪郭がはっきりしていく。
子どもらしからぬ黒の上下。スーツと呼ぶには年齢が足りなさ過ぎるそれを着て。
「連れて行かないでよ……」
子どもは男の子だった。
「……どうしたの?」
自分のものとは思えないひどく優しい声。
あたしにもこんな芸当ができたのか。心の中で感嘆の声をあげながら、さらに近づく。
「……母さんが死んだんだ」
もっとも彼にとってはどうでもよかったらしい。うつむいて。昏(くら)い声を足元に落として。
「おれ、一人だよ。一人じゃ何もできないよ」
なるほど。今着てるのは喪服なんだな。母親の葬儀かなんかでどういうわけかここにいる、と。
そしてこいつは母親を恋しがっていると。無理もない。子どもだからな。
『お願い! 行かないで!』
ふいにいつかの光景が頭をよぎる。
この子はあたしと同じだ。もっともあたしが求めたものとは逆だったけど。
合点がいった。あたしがこいつの元へ来たのは、こいつがあたしと同じものを求めていたから。
「……こっちに来る?」
それは、とてつもなく甘い誘い。
一度手にしたら二度と抜け出すことのできない罠。
「そこに行けば、さみしい思いをしなくてすむの?」
「そうだね」
母親には逢える。だって手をとりさえすれば確実にこことは違う場所にいけるのだから。そして、あたしの考えが正しかったならば。あたし達が行く道はきっと。
ふいに子どもが顔を上げた。見た目どおりどこにでもいる黒髪黒目の男の子。泣いていたんだろう。目は真っ赤に腫れあがっていた。
あたしの目と子どもの目がぶつかる。長い長い時間が過ぎた後。
「……女神様」
子どもから漏れた声に、あたしは肩透かしをくらった。
「変なこと言うね。だけど、あながちはずれでもないな」
自分の発言に気づいたんだろう。こどもはさっと顔を赤らめる。
素直で可愛いどこにでもいそうな子ども。十中八九、誰もがそう答えるだろう。
「さっきの続き。あんた、あたしのとこに来る?」
けれど、どこかが壊れかかっている。
「そこに行けば、母さんに逢えるの?」
「それは、あんた次第かな」
そうでなければこんな誘いにはのらないはず。
「だったらお願い! そこへ連れて行って!!」
そうでなければ迷いもなくあたしの手はとらないはず。
――ヒトリニシナイデ――
虚ろな瞳に灯るのは心の叫び。
――ゴメンナサイ。オレガコワシタ――
ああ。あんたもあたしと同類なんだな。
――コンナモノステテシマオウ――
そうだな。そんなもの捨ててしまえ。あたしがいくらでも与えてやるから。
「――る!」
耳に届くのは子どもを呼び止める大人の声。
「とうさ――」
虚ろな瞳に焦点が灯る。
「どうした?」
「……ごめん。おれ、やっぱりできない」
再びあたしを見つめて子どもが言う。
「おれがいなくなると父さんが悲しむ」
「アンタを見限った奴なのに?」
ひどい言葉でゆさぶっても子どもは首を左右にふるだけだった。
「でもおれ、母さんとおなじくらい父さんのこと好きだから」
それまでとは違う意思のこもった眼差しで。
嘘つき。アンタはあたしと同類なんかじゃない。
アンタはたくさんの人に愛されている。そうじゃなかったらそんな顔はできない。
「ごめんね」
離そうとした手を、あたしはとっさに強く握りしめていた。
「……おねえちゃん?」
「行かせない」
悪かったな。もう少し早ければこんなことにならなかったのにな。
「逢いたいんだろ? だったら会わせてやるよ」
こいつを不幸のどん底にたたきこんだらどんなに面白いことだろう。
あんたははもう、あたしのものなんだ。誰にも文句は言わせないよ。
こいつと出会ったこと。
この子どもを天使にしてしまったことが、後にも先にも唯一の大きな誤算となる。
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