ティル・ナ・ノーグの片隅で

伊織(イオリ)の手紙 ― 海辺のとある一日より ―

その1. 海へ行ってみよう

拝啓 お父さん、お母さん、ばあちゃんへ

 こんにちは。伊織(イオリ)です。
 白花(シラハナ)はもう夏になってるのかな。わたしが住んでるここ、ティル・ナ・ノーグには四季がないので時々懐かしく感じられます。この前ばあちゃんが送ってくれた漬け物おいしかったよ。施療院の皆さんにも好評でした。やっぱり年期が違うって大絶賛。もしこっちに来ることがあったら一番に紹介するね。
 この時期だと海びらきがはじまってるのかな。子ども達が精霊にさらわれないように祈りを捧げて、その後に海遊びを楽しんで。ひょっとしたらお父さんは先に泳いでいるのかも。風邪をひかないようにお母さんは体調管理に気をつけていてください。

 そうそう、海といえば――

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 本当はみんなで海に遊びに行きましたって手紙に綴るはずだったのに。
「…………」
 顔が赤くなってそれどころじゃない。
 普段見慣れているはずなのに今はこんなにも近くて。見慣れたダークグリーンの瞳がいつもよりはっきり見えるのはきっとあれだ、眼鏡をはめてないからだ。あるはずのものがないからこんなにも注意を引きつけられるんだ。
 足下が宙をあおいでおぼつかない。それはそうだ。わたしの腕は目の前の人物にもたれかかる形になっている。正確にはわたしの両腕は相手の肩から首にかけて片腕を回して上半身を少し起こす形になって、相手は両腕で抱きかかえて持ち上げる抱え方。
 つまりは横抱き。俗に言う――
「大丈夫か?」
 相手の背が高いから自然と見上げる形になる。抱える側の負担が大きいから抱えられる方は相手に体を密着させなければいけない。だから、体の熱や心音が濡れた服ごしに伝わってくる。横たわる人を抱え上げる際に用いられる方法。人命救助もさることながら国によっては結婚式を終えた二人が幸せを表現するために用いる方法との認識も高い。わたしもどちらかというと後者の印象が強かったし憧れたりもしていた。
 それを、よりによってこいつにされてしまうなんて。
「イオリ?」
 相手に非がないことはわかってる。でもこの状況を整理するにはもう少し時間が必要で。
「……うん。大丈夫」
 そう返事をするのが精一杯だった。


「海遊びに行きませんか?」
 ことの始まりはパティのこの一言だった。
「仕事ばっかりでゆっくり休めてないし。久しぶりにみんなでお出かけしませんか?」
 大衆向け入浴施設『藤の湯』には月に一度だけ定休日がある。もちろん従業員が休みなしで働いているというわけではなくて、重ならないように職員が代わりがわりにお休みをもらっている。明日はパティの休日というわけだ。
「楽しそうね。そう言えば海で泳ぐこともなかったし」
「でしょう? トモエさん行きましょう!」
 お仕事も一区切り終えた昼休み。巴(トモエ)さんの作ったおはぎを食べながら話に花をさかせて。なぜわたしがこの面々の中にいるかというと施療院がお休みだったのを利用して藤の湯のお手伝いに来ていたからだ。
「楚葉矢(ソハヤ)さんどうかしら?」
 パティの提案に藤の湯当主が二つ返事でうなずく。
「行ってこい。ここ(藤の湯)は俺がなんとかしておくから」
 一日くらいどうにかなるだろ。そう言ったソハヤさんの声を他ならぬトモエさんがさえぎる。
「ソハヤさんも行くんです」
「だったらお前達だけでいってくればいいだろ。今までだってそうしてきたんだし」
「だからこそソハヤさんも行くんです」
 この日のトモエさんはいつになく強気だった。
「ここのところ、お仕事ばかりでちゃんとした外出もできていませんし。もちろん藤の湯のお仕事は好きですしソハヤさんが私達のために頑張ってくれていることは重々承知してます。
 だからこそ、こうして普段とは違う日常を――ソハヤさんとの思い出を作っていきたいんです」
 確かに藤の湯は藤堂夫妻の手腕で成り立っている。忙しさにかけてはわたしの仕事場かつ居候先のグラツィア施療院とひけをとらないかもしれない。だからこそトモエさんは執拗に海遊びをねだったんだろう。そして首を横にふられることを危惧してかトモエさんの表情はくもっている。
「奥様を笑顔にしてあげるのは旦那様のお仕事じゃないんですか?」
 隣でつぶやくと藤の湯当主はうーんと頭をぼりぼりとかきはじめる。目の前には白花撫子(シラハナナデシコ)と称される自慢の奥様。こんな素敵な人におねだりされたら首を横にふれるわけもなく。
「わかった。行けばいいんだろ」
 ソハヤさんの声に藤の湯の面々が笑顔になった。
「パティちゃん少し先延ばしにしてもいいかしら」
「もちろんですよ。来週はみんなお休みですし、みんなで行った方が楽しいですもん」

 こうして藤の湯御一行の海遊びが決定しました。

 ――で終わるところだったんだけど。
「だったらお前も着いてこいよ」
 なぜかその場に居合わせたわたしにまでお声がかかった。
「わたしは施療院の手伝いがあるから無理です」
「だったら施療院の面子もそろえりゃいいじゃねえか」
 笑ってごまかそうとしたけど事はうまくはこばなかった。
「でも先生がなんて言うかわからないし、もし急患が来たりしたら」
 そう告げるとそれもそうかとソハヤさんは腕をくんで考える。実際、施療院は忙しくていつ何が起こるかわからない。
 だけど。
「イオリちゃんも行こう。楽しいよ?」
「イオリちゃんも立派な藤の湯の一員だもの。お弁当なら私が作るから心配しないでね」
 純粋な二人の瞳に迫られて首を横に振れないのはソハヤさんだけじゃなかった。藤の湯の一員とまで言ってもらえるのは嬉しいけど、できれば別の場面で使ってほしい。
「じゃあ、イレーネ先生がいいと言ったら」
 あくまで先生の許可がおりたらの話ですよと念をおしてその日は帰った。二人には悪いけど施療院はいつも人手不足。事情が事情ならみんなも納得してくれるだろう。そう踏んでのことだった。

 それなのに。

「別にかまわないよ」
 期待はあっさりと裏切られた。
「たまには従業員にちゃんとした休みを与えてもいいだろう」
 てっきり難色を示されるかと思ってた。むしろそうなることを期待してたのに。
「でも先生達が頑張っているのにわたし一人が遊びにいくなんて」
「だったらみんなで行けばいいんじゃない?」
 しかも余計な横やり――もとい、別の提案をされてしまった。
「藤の湯からはみんなでって言われたんだよね?」
「そうですけど」
 だったらと人なつっこい笑みで話しかけてきたのは同僚のリオさんだ。
「俺たちも行くよ。みんなで行けば問題なし」
 短めの赤い髪に薄い緑色の瞳。いつも気さくに話しかけてくれる優しいお兄さん的存在――のはずだけど、今日だけはそこはかとない悪意を感じる。
「でも急に休んだら皆さんに迷惑がかかるし、先生の治療を必要としている人たちが」
「貼り紙でも出しとけば大丈夫だよ。そもそも出かけるのは今日、明日の話じゃないんでしょ?」
「だけど」
 なおも言いつのろうとしたところを他ならぬ先生がさえぎる。
「イオリ。君は真面目すぎるんだ。若者は若者らしく友人を大事に、たくさん思い出を作りなさい」
 本来ならば故郷に帰省させてあげたいところだがそこまでの余裕はなくてね。申し訳ないが海で我慢してくれという声も加えられて。我慢しなくていいから働かせてください! そう言いたかったけど周りの気遣う視線が痛々しい――もとい、有無を言わせぬ迫力で。
「私もたまには羽をのばさせてもらうよ。遊びで海なんて長いこと行ってなかったからね」
「だったら色々準備しとかないと。ああ、休業の張り紙なら俺が作りますよ」
 しかも大人組のほうが心なしか楽しそうにしてるし。
「せっかくの休みだしこの際だ。君の相方も誘ってみたらどうだ?」
 加えて新しい提案もされてしまう。思えばこれがいけなかった。
 わたしにとってここ、ティル・ナ・ノーグでの相方はたった一人しかいなくて。でも彼はお世辞にも海と縁が近いとは言い難く、むしろ全速力で反対の方角にいそうな気がする。
「彼にも休日が必要だろう。体力の増強もかねて誘ってみたらどうだ?」
 その認識は先生も同じだったみたいで。確かにあいつはもやし男だし周りが気を配らないと平気で工房にこもりっぱなしになってしまう。閉じこもれるだけの持久力はあるかもしれないけど自分から進んで運動をするタイプじゃない。ましてや海なんて行くことあるんだろうか。
「じゃあユータが行くって言ったら考えてみます」
 あいつなら今度こそ首を横にふってくれるだろう。ただそれだけを期待して二つ返事でうなずいた。

 それなのに。

「別にかまわないぞ」
 ユータ。あんたもか。
 がっくりと肩を落とすわたしの前で相方は首をしっかり縦にふってくれた。
「あんたが海が好きだとは思わなかった」
 素直な感想を口にすると好きでも嫌いでもないという返答が返ってきた。
「ニナやウィルが遊びたがってたから。施療院や藤の湯のみんながいるなら安心して出かけられる」
 そうきたか。
「イオリは海に行きたくないのか?」
 反対に質問されて言葉につまる。別に、わたしは海が嫌いというわけじゃない。
「二人は海に行きたい?」
『行きたい!』
 ニナちゃんとウィルくんが元気よく返事をする。兄のユータスがユータスなだけに二人にとってはまたとない機会なんだろう。
 だけど。
「イオリ?」
 だけど。
「イオ――」
「うるさか(うるさい)!」
 相方の顔に裏拳がとんでしまったのはご愛敬だ。
「お望み通り行ってあげるわよ。それでよかやろ(それでいいんでしょ)?」
「なんで俺が殴られるんだ」
 ニナちゃんやウィルくんのお願いを無下にできるほどわたしは非情にはなれない。
「それで満足やろ(満足でしょ)! だったらあんたも着いてきなさい!!」
「はじめから着いてくつもりだったけど」
「口答えはせんでよか(しなくていいの)!」
 半ばやけくその状態で声をあげると心配したニナちゃんが口を開いた。 
「お兄ちゃん。またイオリちゃんに変なこと言ったんでしょ。イオリちゃんに謝りなさい!」
「なんで俺が」
「いいから!」
 すごい剣幕でつめよられて。納得がいかない表情はしていたものの、ごめんなさいと相方に謝られた。腑に落ちないなら謝らなきゃいいのに。でも誘因の一端を担ってるから指摘しないでおく。
「イオリちゃんも行くの? 海楽しみだね」
「……楽しみだね」

 かくして藤の湯、施療院+αの海遊びが決定しました。

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