ティル・ナ・ノーグの片隅で

暁に魚が奏でる唄は

その四。逃避の末にたどる道は

 その気になれば、いつでも元の姿にもどることができた。そうしなかったのは少年の姿のままでいたかったから、彼女の側にいたかったから。
 もう少し。もう少しだけ。そんな感じでずるずると。それだけテティスと、人間の友人と共にいたい。そんな気持ちが強かったから。
 彼女を連れ出してティル・ナ・ノーグへ行く。それが一番の選択だったんだろう。けれども現実はそううまくはいかなかった。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 その日の夜。約束通りオレは海岸にいた。
 目的はただ一つ。彼女をティル・ナ・ノーグへ連れて行く。ただそれだけだった。彼女が言ったように人間には人間のルールがあることは知っている。それでも最後くらい彼女の願いを叶えてあげたい――彼女の笑顔を見たかったんだ。それさえできれば後はどうなってもかまわなかった。
 やがて、海岸のむこうから小さな人影が姿を現す。
「来てくれたんだ」
 白い肌に乱れた髪がはりついている。息も絶え絶えに走ってきたという体だった。今思えばそんなにまでして何を伝えようとしたのかもっと考えるべきだった。
「テティス。返事を聞かせてかせてくれないか」
 けど、その時のオレは彼女の答えを聞くことで精一杯で。
「言葉にするのが難しいなら手をとってくれるだけでいい」
 これが最後。とられてもとられなくても彼女が決めたことを受け入れよう。そう自分に言い聞かせながら彼女に向かって手を差し出す。
「私は……」
 だから、余裕なんてなかった。自分の身体がどのような状態にあるかってことに。
「逃げて」
 返ってきたのは肯定でも否定でもなく懇願の声だった。
「あなただけなら逃げられる。お願い」
 なんでそんなことを言われたのかわからなかった。ただ必死にオレを拒絶しようとしている。拒絶の声に別の感情が見え隠れしている。
「できるだけ遠くへ逃げて。そして帰ってこないで!」
 それを必死に理解しようとして。現状を全く把握できていなかった。
「どういう――」
 どういう意味なんだい? 口を開くより前に体の動きを封じられた。
「お前にこんなことをする気概があるとはしらなかったよ」
 何が起こったのかわからなかった。知らない声と同時にはしる肩の痛み。痛みの元をたどれば右肩を矢で貫かれていた。
 彼女と同じ緋色の髪。けれども全く別の感情を灯した冷たい瞳。
「妖(アヤカシ)から流れるのは青い血か。疑って悪かったなテティス」
「お父様……」
 テティスと共に現れた第三者はまぎれもない彼女の父親だった。
「屋敷にいた奇妙な魚が我々と同じ人間を形どるのか。海の世界とは非常に興味深い」
 結婚前の逢瀬を快く思わない外野が邪魔をする。それはどの種族でもよくあること。けど、こんな形で邪魔をされるとは思わなかった。魚が人の姿を形どる。普通の人間の常識なら考えられないことだろう。でも内通者がいたら? 裏で手引きをする者がいたら?
「テティス」
 彼女の父親の背後に控えていたのは無数の兵士だった。
「君はオレを売ったの?」
 無数の矢がオレに向けられる中、彼女に向かって問いかける。
「私は――」
「人間には人間の伴侶が望ましい。そして君の父上も同じことを考えているのでは」
 彼女の声におおいかぶさるように父親が淡々と声をあげる。
「君達は本性を砕かれると泡になって消えてしまうそうだね」
 それはオレの実体が捕らわれているということを意味した。
「……脅迫するつもりか」
「まさか。海の種族とは友好的な関係を築いていきたいのだよ」
 そう言いつつも兵士達の照準はきっちりオレに向けられたままだ。正直な話、躊躇さえしなければ普通の人間程度なら楽にやりすごせる。でもオレ達にとっての急所、本性を砕かれれば一瞬にして滅びてしまう。本性の説明は前にもしただろ? とどのつまりは生まれもっての本来の姿ってこと。
 よく考えてみるべきだった。女の子が毎晩水槽に語りかけてて同時期から得体の知れない男が現れて。知識のある者だったら考えればわかりそうなものなのに。逆説をとれば、それだけ当時のオレは浅はかだった――子どもだったんだ。
「父君と話がしたい。聞き入れてもらえますな?」
 魚の父親は良くも悪くも種族を超えて有名だった。父親が有名だと子孫まで調べあげられても何ら不思議はないのにね。
「丁重におもてなしさせてもらおう。リールの息子よ」
 親が有名すぎると子どもは本当に辛いよ。うん。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 父親を呼ぶことは簡単だった。音を奏でればいいだけのことだから。
 不思議な顔するんだね。海と音って密接なつながりがあるんだよ? あと月の精霊とも。
「これが丁重なおもてなしか」
 両手足にはめられた枷(かせ)を見ながらつぶやく。本性をおさえられたとはいっても逃げようと思えば逃げれた。でもそうしなかったのは傷を負っていたこととテティスのことが気になっていたから。
 海と人間は相容れないのだろうか。
 彼女の本当の気持ちはどこにあったんだろう。
 そんなことを考えながら牢獄(ろうごく)で一晩を過ごしていると、ふいに部屋の外から鳴き声がした。
 聞き覚えのある獣の鳴き声。暗がりでもわかる丸い瞳。その獣の名は。
「メル!?」
 友人の飼い猫が鉄格子ごしにオレのほうを見ていた。じっと見つめた後、にゃあと一声鳴いて。ついてこいとばかりに走り出す。

 ――この子はあなたと話したいだけなの。あなたが心を開いてくれたらすぐにお友達になれるのに――

「君は、本当に友達になりたかったんだね」
 考えている場合じゃないんだろう。今は行動あるのみだ。
「しかし、お父上が――」
「私の声が聞こえないの? いいからここを開けなさい!」
 同時に耳に届くのは聞き慣れた勝ち気な友人の声。本当に考えるのは後回しにしたほうがよさそうだ。
 拘束がほどこされたヒトの体では動くのはままならない。喉をつぶされてなくてよかった。音さえだせればこんなところ簡単に抜け出せる。
 口を薄く開いて大きく息を吸う。人間の体は時として楽器として音を奏でることができる。唇から漏れるのは口笛とは異なる高くて大きな音。
 空気が振動して鉄格子が大きく揺れる。
「何をやって――」
「お願い、ここを開けて!」
 人間の体は時として楽器に、時として武器として効果をなす。異変を感じた兵士が顔をあらわしたのと友人が飛び込んできたのはほぼ同時。彼女の腕をとって地に伏せたのと爆風が牢獄を襲ったのもほぼ同時だった。
「メル!」
 ほこりまみれになった牢獄でもう一匹の友人の名を呼んで。兵士の視界が戻るよりも早く彼女の手を取って走り出す。
「何が起こったの?」
「即興のリサイタル」
 困惑している彼女に片目をつぶって。あの方ほど外れた音は……もとい、規格外の音は出せないけれど真似事ならできるから。要は即席の空気砲を作ったってこと。威力は小さいけど目くらましには十分だ。
「はじめからオレを利用するつもりだったの?」
「……ごめんなさい」
 走りながらテティスがつぶやく。それは肯定の声。
 彼女の話によるとこうだった。夜な夜な魚に語りかけるテティスに父親は優しく語りかけた。『自分も魚と話がしたい。どうしたら彼と話ができるのかな』と。声をかけてくれたことが嬉しくて、オレとの会話の内容を事細かに話していったという。魚が月の光を浴びてヒトになること、魚が海の長の息子であること。
 海の世界のことを詳しく聞きたがったのは父親が『海の長と話がしたい』と願ったから。
「私にもお父様の役にたつことができるって思えて嬉しかったの」
 でも現実は海を侵略するための足がかりにされただけ。ましてや息子じゃないからと見知らぬ男のもとへ嫁がされようとしている。そして話の締めくくりに彼女はとんでもないことをオレに告げた。
「お父様はあなたと契約を結ぼうとしている」
 彼はオレの力を使って国を滅ぼそうとしていると。リールじゃなくてもオレ程度ならなんとかなるだろうと思ったらしい。オレもなめられたもんだね。
 魔法使いになるには精霊との契約が必要だ。もちろんだれでもなれるわけではないし、リスクだって必要になる。加えて曲がりなりにも両者の同意がなければ契約は成り立たない。
「……人間がそこまで愚かとは思わなかった」
 理論上なら妖精との契約は可能だ。それを行う人間がいないのはリスクが大きすぎるのと互いの同意が得られないから。当然ながら、オレには彼女の父親と契約を交わす気はさらさらない。
 ほどなくして海辺の近くまでたどりつく。
「ここまで来ればあなた一人で逃げきれる」
 そう言って岩場の陰に潜む水槽を指さす。そこに浮かんでいたのは光を放つ魚――オレ自身だった。精霊であれば姿は見えても実体がない、あっても常時はとれないから意味がなかったかもしれない。けど悲しいかな魚には妖精の血が流れていて。実体があったんだ。実体をやられても本性をやられても同様にダメージを受ける。もちろんそれを上回る体力と再生能力もあるんだけどね。当時のオレはどちらもままならず中途半端な存在だった。
 傷が癒えてないから本性は相変わらず小さなまま。一体どうやってとりもどしたのかはわからなかった。でも彼女の声と息づかいが相当な無茶をしたことを物語っている。とにもかくにもこうして本性をとりもどしたんだ。こんなところに留まる理由はなかった。
「君も来るんだ!」
 海に連れ出せばあとはオレの独壇場だったから。何よりも彼女を父親とはいえあんな人間のそばにおけなくなった。

 オレなら、もっといろんなところへ連れていってあげられるのに。
 オレなら、もっと笑わせてあげられるのに。

「そこまでだ」
 差し出した手は再び男の声によってさえぎられた。
「まさか自分の娘に邪魔されるとはな。娘なら女らしく家に閉じこもって素直に嫁にいけばいいものを」
 予想済みだったんだろう。先刻と全く同じ光景が繰り広げられようとしていた。
「お願いお父様。彼を海に還してあげて!」
 テティスがオレをかばうように両手を広げて声をあげる。
「リール様とお話したいのなら別のやり方があるでしょう? これ以上、彼を傷つけないで!」
「これが最良のやり方だ」
 実の娘に耳を傾けることもなく無数の矢が放たれる。彼女の言ったことは本当だった。彼女の父親は本気でオレを取り込もうとしている。
「お嬢様! おやめください!」
 けれどオレ自身に危害が加えられることはなかった。
 兵士の制止の声と彼女が倒れたのはほぼ同時。仮初めの体と本性があればおおもとをたたいた方が手っ取り早くてすむ。複数の敵意がオレに向けられる中、一人の兵士が本性を攻撃しようとしていた。それに気づいたテティスが兵士の武器を取り上げようと必死にすがりつく。
 オレに直接の危害が加えられなかったのは彼女が身をはってオレの本性を守ってくれたから。
「テティス!」
 もみあった末のことなのか別の矢が放たれたのか。駆けつけた時には友人は傷を負っていた。
 倒れた彼女の元に駆け寄って。息はあった。けど、とても動ける状態じゃない。信じられなかった。なんで自分の娘にそんなことができるのか。
「どうしてそこまで愚かなのだ。お前は」
 倒れた娘に冷たく言い放つ。どうしてそんな言葉が吐けるのかオレには理解できなかった。
「後で腕のいい魔法使いを呼んでやる。お前はそこで頭を冷やせ」
「愚かなのはてめェだ」
 こんなに怒ったのは久しぶりだった。
「この娘(こ)はてめェの娘じゃないのか」
 自分の利のために身内を見捨てようとする。あってはならないことだった。
「彼女はアンタを慕っていた。それなのにてめェは実の娘を傷つけるのか」
「男でなければ意味がない。役だってもらおうと知恵をかせばこのありさまだ。こんなことならいっそ生まれてこなければよかったものを」
 傷を負った我が子に心ない言葉の応酬。

 どうして。ヒトはこんなにも愚かなんだろう。

「有能な獣の肉を食べれば巨万の富と英知が養われるそうだが本当かね」
 男の声は耳に入らなかった。こんな人間の戯言など聞く価値はみじんもない。
「お願い。逃げ――」
「逃げない」
 彼女を砂浜に横たえて。傷口に手を当てる。人間にオレの能力が効くのかわからなかったけど何もしないよりはましだったから。
 逃げたくなかった。
 こんな人間に背を向けるなんて海の一族としての誇りが許さなかった。
「海に眠りし者たちよ。吾(われ)が命ず」
 ざわり。体の感覚が研ぎ澄まされていく。気配を感じた兵士達が後ずさりをしても、もう遅い。


 地上に降り立ってはや十年。これが、初めて人間に敵意を向けた瞬間だった。

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