Part,75
残された部屋で、まりいは一人思案にくれていた。
夢の中で『声』を聞いて。
目が覚めたら目の前には見知らぬ少年がいて。
少年と、少女と一緒に旅をして。
初恋もしたし、失恋もした。
嫉妬もしたし大切なことも教えてもらった。
物心ついた時から両親がいなくて。
変わった容姿と名前のせいでずっといじめられて。
やっとできた友達も遠くに行ってしまって。
引き取ってくれた人にも心をひらけずにいて。
病気のせいでずっと入院と退院の繰り返しで。でも、自分のことを真剣に怒ってくれる人もいて。
どちらの世界もまがいものでしかなかった?
――違う。
空都(クート)でだって、いいことばかりではなかった。
地球だって、嫌なことばかりではなかった。
周りが自分のことを拒絶しているのだと思った。だが現実は違っていた。人に言われて初めて気がついたのだ。もしかすると。
「……拒絶していたのは私?」
ふいに、戸惑いが口からもれた。
「私は何も見ようとしていない?」
それは少女の気づいた事実。
病室の窓を開けると、そこには空が広がっていた。
雲ひとつない青空。それは涙が出るほど綺麗で。涙が出るほど心にしみわたるもので。
「私は、シーナ」
それは、空都での名前。
「私は、まりい」
それは、地球での名前。
「私は、椎名まりい」
それは、まりいがまりいである所以(ゆえん)。
少しだけ、前を見てみようか。もしかしたらほんの少しだけ今までとは違うものが見えるのかもしれない。
目をつぶり、大きく息を吸う。
「黄砂(コウサ)、出てきて」
ふいに少女の横を一陣の風が吹きぬけた。
「決心がついたの?」
静かな声に、まりいは首を横にふった。病室に現れたのは緋色の髪の少年。病室から見えるものと同じ空の瞳がまりいをじっと見つめている。
「自分のことがわかってないんだもん。決心なんてつけられない。でも、行かなきゃいけない」
今までは、確かにそうだったのかもしれない。
誰も自分のことを嫌がらない人達のもとで、笑ったりはしゃいだりする。どれだけはしゃいでも体を気にする必要はない。そんな世界に自分はずっと憧れていたのだ。
でも、現実はそうではなくて。
でも、嫌だと思っていた現実にも優しいものは確かにあって。
「私は知らないといけないの」
見なければいけないのだ。今まで目にしようとしていなかったものを。それは辛いことになるかもしれないし、そうでもないかもしれない。
だから。
「お願い。私を空都(クート)に連れて行って」
空都を逃げ場にしたくはない。それがまりいの正直な気持ちだった。
静かに、だが熱のこもった声を少年は聞いていた。まりいが話し終えると、黄砂は口を開く。
「あなたは何を望んでいるんですか?」
それは、いつかまりいが耳にした『声』だった。
「自分を知りたいの。もう少しだけ、周りを見てみたい」
「今のままでは駄目なんですか?」
声に、まりいはしっかりとうなずく。
「だめ。だって私は何も見ようとしてなかったから」
変わりたいと思うだけで。自分の不幸を嘆くだけで。もしかしたら別の何かがあるかもしれないのに自分はをそれを少しも見ようとしていなかったから。
「扉を開いてほしいんですか?」
「――はい」
三度の問いに、少女はは臆することなく答える。空色の瞳をみつめる少女のそれは、強い意思に満ちあふれていた。
しばし見つめた後、黄砂は短く息をつく。
「白状すると、これをやってたのは僕じゃないんだ。僕は頼まれたことを実行しているにすぎない」
「いいよ。そんなこと」
今さら色々聞かされても今の自分ではわからないことだらけなのだから。それよりも今置かれた現実を見据えなければならないのだから。
「残された時間は少ない。それでもいい?」
黄砂の問いにまりいは一つうなずいた。
それを確認すると、黄砂は厳かに言葉を紡ぐ。
「ならば、扉を開きましょう。あなたに翼の民の祝福のあらんことを」
途端、辺りをまばゆい光が包む。
後に残されたのは、ベッドに横たわる少女のみ。
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ほんの少しだけ勇気を持とう。
もしかしたら目を開けた時、今までとは違うものが見えるかもしれないから。
目を開けると、そこはベッドの上だった。
「……帰ってきたんだ」
つぶやいた言葉に苦笑する。
現実とは一体どちらの世界のことを言うのだろう。
地球、空都(クート)? それとも――
「……?」
ふと気配を感じて上体を起こす。気配を感じたのは部屋の外。ドアを開けると、そこには少年がいた。
栗色の髪の少年。黒の瞳は、まぶたの奥になりを潜めている。その少年は、壁に寄りかかるようにして寝息をたてていた。
「お嬢ちゃん、目が覚めたのかい?」
現状を確かめる間もなく、第三者の声が耳にとどく。そこにいたのは先日まで泊まっていた宿の主人だった。
「連れにちゃんと礼を言ってやりなよ。三人ともずっと看病してたみたいだからな」
主人の言葉と少年の様子から、現状を理解するにはさほど時間はかからない。『なんなら起こしてこようか?』そう提案した彼に、まりいは首を横にふった。
「起きるまで待ってます」
「そうかい。確かにみんな疲れているだろうしな」
一人納得する主人をよそに、まりいは瞳を少年に向ける。
もしかしたらずっと側にいてくれたのだろうか。
結論を出すまでに時間はかからなかった。彼はいつだって真面目で優しいのだから。
思えば彼には何度となく助けられてきた。まりいを受け入れてくれたのも彼で、拒絶したのもまた彼で。
それでも。
「……ありがとう」
精一杯の気持ちをこめて、まりいは少年につぶやく。
よほど疲れているのか少年は微動だにしない。その姿に苦笑すると、まりいは宿の主に頼みごとをする。
「伝言おねがいできますか? あと、お借りしたいものがあるんです」
「……いいけど、そんなもの何に使うんだい?」
眉をひそめた主に、まりいは穏やかに応えた。
「覚悟をきめたいんです」
ザザ……
村はずれにある砂浜を、まりいは一人歩いていた。以前、崖の頂上から見えたあの海岸だ。
靴を脱いで砂の感触をかみしめる。海を最後に見たのはいつの日だっただろう。
そよぐ風が心地いい。こんなふうに風を感じたのはいつの日だっただろう。
そういえば前にもこんなことがあった。夜に一人みんなの元をぬけだして水辺で遊んでいて。
「……シーナ」
こんなふうに駆けつけてくれて。
まりいが振り向くと、そこには栗色の髪の少年がいた。