Part,72
霧もまだ晴れぬ早朝、彼女は外へ出た。
抜け出すことは造作もない。小さい頃はよくやっていたのだから。
ちゃんと手紙も書いた。心配するだろうが帰ってきたらうんとあやまろう。今までだってそうしてきたのだ。さほどとがめられることはあるまい。
準備は整った。さあ出発だ――
「どこへ行かれるのです?」
声をかけられ、少女は動きを止めた。
「あなたが朝早く行動を起こす時は、必ず何かがあるときですから。見張っていて正解でした」
「よくわかったわね」
苦虫を噛み砕いたような顔でシェリアは声の主をかえりみる。
「わかりますよ。わたしはあなた様の育ての親なんですから」
にこやかに語りかける様は聖職者のそれにふさわしく。だが、その裏には厳しさも含まれていることを公女はよく知っていた。
リューザ・ハザー。言わずと知れたミルドラッドの神官長であり、同時にシェリアの育ての親でもある。
「止めたって行くわ」
「どうしてです?」
否定するでもなく肯定するでもなく。静かに語りかけてくる初老の神官に、シェリアは告げた。
「予感がするの」
それは確かな予感。
「アタシがいかなきゃいけないの。友達が困ってる」
老神官の瞳を見据え、胸の前で手を組む。
誰に言われたわけでもない。 自分を救ってくれた人達が、困っている。泣いている。助けを求めている。そう感じたのだ。
「そのようなこと、わたしが信じるとでも?」
「リューザは神官でしょ? 神様の言うことは信じてもアタシの言うことは信じられないの? お願い。行かせて。止められても行きます」
「止めはしませんよ」
公女とは対照的に、リューザの口調は落ち着いたものだった。
「前にも言いましたよね。そろそろ頃合ではないかと。あなたは一つの場所にとどまっていられるようなお方ではない。だったら娘の旅立ちを見守ることくらいしかできないでしょう? 生憎わたしは神の言うことよりも目の前のあなたを信じることしかできない質なので」
「……ありがとう」
片目をつぶる老神官に、公女は感謝の言葉を述べる。思えば彼にはいつも助けられてばかりだった。一人が嫌で泣いている時。故郷に戻って見知らぬ男と婚約させられそうな時。それをことごとく打破し、しまいには本当の親子の絆を呼び起こしてくれたのだ。
感傷にひたっていると、ふいに神官がつぶやく。
「しかし、あの子の言った通りのことをなされるとは」
「あの子?」
言葉の意味を問いただす暇もなく。
「当前です。私はこの子の育ての兄なんですから」
霧の中から一人の青年が姿を現した。
金色の髪に白い肌。青い瞳が公女を優しく見つめている。
長身の体躯。白の衣装に身を包み、たたずむ様は父親と同様、神官としての風格を物語っているようだ。
が――
「まだまだ甘いですねえ」
唇からもれたのは、外見とは異なるものだった。
「裏口から抜け出すなとは言いませんが、もう少し異なる手立てを考えておきなさい。そもそも行動がワンパターンすぎます。あれでは子供の頃と全く変わらないじゃないですか」
「だって時間がなかったもの」
シェリアが頬をふくらませても、青年は淡々と続ける。
「そういう時は前もって準備をしておくんですよ。私なら、あと十種類の手立てを考えておきます」
顔に浮かぶ笑みはまさに聖職者そのもので。
唇から紡がれる言葉はまさに辛辣(しんらつ)なもので。
深い深いため息をつくと、シェリアは青年を見あげて苦笑した。
「本当にあいかわらずね。アルベルト」
「お褒めに預かり光栄です」
金髪の青年――アルベルトは、優しげに、爽やかに公女にむかって微笑んだ。
アルベルト・ハザー。
リューザ・ハザーの一人息子であり父親と同じく神官の道を歩む若者である。したがって、以前まりいやショウに話していた教育係の息子は彼を指すことになる。
「いつから帰ってたの?」
「昨日です」
「……昨日の今日でよくわかったわね」
「それはもう。あなたと私の仲ですから」
本当に昔とちっとも変わってない。
五月の若葉のような笑顔を前に、シェリアはため息とも苦笑ともとれない息をもらした。
「それにしても方法が姑息すぎます。悪いことをしにいくわけではないのですから、もっと別の方法を考えなさい」
「だって普通は怒るわよ。家出なんて」
言い分はあるにしろシェリアは公女なのだ。両親ひいてはミルドラッドという街が外出を許してくれるとは思えない。
「家出じゃなければいいんですよ」
「他に方法があるの?」
固唾をのんで問いかけるシェリアに、アルベルトは満面の笑みを返した。
「こういう時は、大手をふって堂々と家を出ればいいんです」
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「わたくしはアルベルトについていきたいのです」
父親と母親に、シェリアはそう告げた。
「見聞を広めるのは公女として大切なことでしょう? 勉強だってしています。でもここでは限界があるんです」
だったらはじめから寄宿学校に行けばよかったのではないか。
自分の胸中であげた疑問に、シェリアは頭をふった。答えは否。そんなところに行っていたら今の家族にはなりえなかったのだから。
だから、今できることを告げる。
「アルベルトはリューザの息子ですもの。わたくしを守ってくれますわ」
胸の前で両手を組み、半ば潤んだ明るい茶色の瞳で父親を見上げる――こうすると効果が上がると教えられたのだ。実際その教えは効果があったらしく、ミルドラッドの領主はこめかみをおさえながら公女のかたわらにいる若い神官を見た。
「シェリアはこのように言っているが、そなたはどうなのだ?」
「シェリア様のご要望とあらば」
うやうやしく礼の形をとる様は神官というよりも貴族のそれと見間違うほどで。
ため息をつくと、領主は自分の娘にこう言った。
「シェリアよ。アルベルトにつき勉学に励むのだぞ」
「はい!」
なにはともあれ望みが叶ったのだ。これで大手を振って捜しにいける――
「それともう一つ」
今にも駆け出しそうな勢いの公女に咳払いをすると、公主は目もとをなごませてこう言った。
「そなたの友人にもよろしくな」
どうやら彼女の両親も娘の言動の裏にあるものが理解できるくらいには成長していたらしい。父親の言葉に神官は平然と、娘は引きつった笑みを返した。
「私の言ったとおりになったでしょう?」
城門を出た時の若い神官の顔は善人そのもので。
「あなたって本当に外見と言葉と中身があってないわね」
シェリアは皮肉とも感嘆ともつけない息をもらした。
「お褒めに預かり光栄です」
ほめてない。そう言おうとしてシェリアは口をつぐむ。今さら言ったところで無駄なのだから。
アルベルトの修行の一環として同行する。それは彼が言い出した作戦だった。確かにそうすれば大義名分はつくし、いざとなれば彼がなんとかしれくれる。もちろん、守られるつもりは毛頭ないし何よりも彼が守ってくれるとは思わなかったが。
「わかっているとは思うが、くれぐれもシェリア様に粗相のないようにな」
育ての娘と息子を交互に見ながらリューザは声をかけた。
「わかっています。だからこそシェリアのお守りを引き受けたのですから」
「せめて護衛と言いなさい。それでは周りにいらぬ敵を作ってしまうではないか」
「大丈夫ですよ。私は父上の息子ですから」
同じ笑顔なのに二人のそれはまるで違う。まるで違うが本質はきっと同じだ。
これだけ似ているようで似ていない親子も珍しい。二人のやりとりを見ながら、シェリアは漠然とそう思った。
少し前ならば複雑な思いでこの光景を目にしていたのかもしれない。でもそうならずにすんだのはここにはいない友人達のおかげ。
「さて。さっそく出かけるとしましょうか」
「でも二人がどこにいるかわからないの」
「そんなこと、調べればどうとでもなります」
「できるの?」
公女の問いかけに、アルベルトは満面の笑みを浮かべた。
「私を誰だと思っているんです?」
穏やかな表情とは裏腹に、聞きようによっては人を見下したようなこの台詞。
本当に表情と言葉と名前があってない。苦笑すると、シェリアは空を見上げた。
何一つない青い空。この青空のどこかに友人達がいるのだ。
待ってて。すぐに行くから。
こうしてシェリアはミルドラッドを後にした。