Part,50
そこには何もなかった。
目前に広がるのは暗闇。だから目を開いているのか、閉じているのかもわからない。
(気がついた?)
第三者の声が聞こえたのはそんな時だった。
「あなたは誰?」
それは少し前に聞いた声。
(下を見てごらん)
「……?」
声に導かれるまま、まりいは視線を下に向ける。
そこにあったものは、ベッドに横たわる少女と、そのかたわらで見守る少年。
黒髪の男子。背は高くもなく、かといって低いわけでもない。漆黒と呼ぶには程遠い、黒の瞳がベッドの主を見つめている。その人物のことを心配しているのか、もしくはそれ以外のものなのか。少年の瞳からは感情の色が読み取れない。
彼の視線の先にあったのは焦げ茶色の髪の少女。顔色は悪く、衰弱しているということは簡単にみてとれる。
少女の正体は――まりいだった。
「どう、して」
人知れず言葉がもれる。
学校の廊下で倒れた記憶は確かにある。確かにあるが、これでは――
(君がここにいたいと望んだからさ)
「どういうこと?」
肉声ではない。頭に直接語りかけてくるような声に、まりいは視線をさ迷わせる。
(変わりたいって思ったんだろ? だから君はこの世界に、空都(クート)に来た。
二つの世界に肉体があること自体まれなことなんだ。一つの世界に精神が入り浸っていれば、残された世界の肉体は朽ちる。これは当然の結果じゃないか)
「違う! 私は――」
(じゃあむこうにもどればいい。生活することもままならない体で生きていくつもり?)
静かな声。だが鋭利な刃物のようなものが含まれた声。少なくとも今のまりいにはそう感じられた。
(どちらにもいたいなんて思う方が、むしがよすぎるんだ)
怒鳴ることも悲嘆することもできず、まりいはその場に立ちつくした。
そして意識は闇に閉ざされる――
「気がついた?」
再び目を開けると、まりいは少年の腕の中にいた。
馬車の前に突如として現れた少年。陽の色の髪に空を模した瞳が、まりいをじっと見つめている。
「標(しるし)がけって、初心者には負担がかかるんだ。君がいたことすっかり忘れてた……おっと」
「来ないで!」
慌てて青年の腕から離れると、まりいは彼をきっとにらみつける。
「私をどうするつもりなんですか! 元の場所に返して!」
「元の場所ってどっち?」
怒鳴りつけるまりいに対して、少年は冷静だった。
「どっちって……」
「空都(クート)? それとも地球?」
それは少し前に浴びせられたものと全く同じ質問だった。付け加えるならば、それは少し前に聞いたものと全く同じ声。
「ね。君の名前は?」
軽く肩をすくめると少年は顔を近づけてくる。
「来ないでください。大声だしますよ!」
「名前は?」
「き――」
声をあげようとして、まりいは叫ぶことができなかった。
「これって役得って言うのかな。君、こういうのに慣れてないでしょ」
なぜなら少年に再び抱きすくめられてしまったから。
少年の言うとおり、まりいはこのようなことには免疫がない。さらに言えば、異性に抱きしめられたのはこれが二度目だ。
「……いつまでそうしてるつもりですか」
「君が名前を教えてくれるまで」
まりいの非難の声も笑顔で黙殺する。赤い顔のままため息をつくと、まりいは小さくつぶやいた。
「シーナ、です」
「それが今の君の名前なんだね」
「……あなたの名前は?」
「内緒」
ふざけないで!
そう言おうとして、まりいは再び叫ぶことができなかった。
「僕達にとって名前は力そのものだから。そう簡単に教えられないんだ」
なぜなら、まりいの問いかけに少年が初めて寂しそうな顔を向けたから。
(本当にわからない)
それがまりいの正直な感想だった。
冷たい言葉を投げかけたかと思えば人をからかうような仕草をする。会って間もないが、まりいにとって目の前の少年はわからないことだらけだった。
「私をどうするつもりなの?」
今までとは違う反応に戸惑いつつも、まりいは少年に尋ねた。
「どうもしないよ」
「え?」
「どうもしないさ。ただ話をしたいと思っただけ」
手を離して再度肩をすくめる少年に、まりいは戸惑いの眼差しをむける。
まりいにはわからなかった。どうして少年がこんな不可解な行動をするのか。尊大な態度をとるかと思えば子供のような表情を見せたり。
――変な人。私よりずっと年上のはずなのに。
「何か話してよ。なんでもいいからさ」
「急に話せと言われても……」
「なんでもいいから」
この人は年上。きっと……彼と同じくらいの。
「失恋、したの」
少年の方を見ないようにして、まりいはつぶやいた。
「ちょっと違うかもしれない」
腕から離れてしゃがみこんで膝を抱えて。まりいは少年にとつとつと話しはじめた。
「違う?」
「青藍(セイラン)に会って、色々話したの。はじめはとても戸惑ったけど、強くて頼もしくて、カッコよかった。
守るって言ってもらえて……嬉しかった」
でもそれは、自分のためじゃない。
彼が守りたかったのは別の人。そしてその人と想いを添い遂げることができた。それを後押ししたのは他ならぬ自分自身。
「気持ちを伝える前に、玉砕しちゃった」
そう言うと、膝の間に顔をうずめる。
「泣きたいの?」
少年の声に、まりいは首を横にふった。
「もうたくさん泣いたから。それにあんまり泣いたら心配させる」
「誰に?」
「それは――」
口を開こうとして、首を横にふる。
顔を上げると、まりいは前を見据えて言った。
「それでも私は青藍が好き。彼が幸せでいてくれたらそれでいい」
少年に言い聞かせるというよりも、自分自身に言い聞かせるようにまりいはつぶやく。そんな彼女を、空色の瞳が静かに見つめている。
「そう思えるっていいね。僕にはできなかったから」
「あなたも失恋したの?」
「うん。……いや、少し違うかもしれない」
少し前にまりいが返したものと全く同じ答えを返す。
「一族のやっていることが正しいかどうかわからない。だから僕達は逃げ出した。外を見ようとした」
そう言うと少年はまりいの頬に手をのばす。
「会っておきたかったんだ。この姿が保てるうちに」
「……?」
「あの人達の娘である君に」
「お父さんとお母さんのこと知ってるの!?」
まりいの問いに、少年が答えることはなかった。ただ静かに微笑むのみで、しばらくするとゆっくりと手を離す。
「時間切れ。本当は、もう少し話していたかったんだけどな」
口調と比例するかのように少年の表情が険しいものになっていく。輪郭がぼやけているのは気のせいだろうか。
「体の具合が悪いの?」
今度は、まりいが青年の頬に手を添えた。
普段ならまずありえない行為。だが、まりいには目の前の少年が気になってしかたなかった。
青藍に感じた感情とは違う。ショウともまた違うのだろう。それはまるで――
「そうじゃない。文字通り時間切れ」
まるで、自分に近しい者に出会ったときのような。
「また会える?」
「この姿では難しいかも」
微笑んだまま、少年は再びまりいを抱きしめる。
「君はたくさんのものに守られているんだね。僕達は君がうらやましい。何も知らない君が」
それは、まりいにとって初めて聞く羨望(せんぼう)の言葉だった。
「そして――憎い。気づいているのに気づかないふりをしている君が」
それは、まりいにとって久しぶりに聞く拒絶の言葉だった。
「はじめに見せたものは夢なんかじゃない。実際の出来事だよ。
僕の能力を使えば君をあの場所へ返してあげることができる。どうする?」
「どうする……って」
「地球へ帰る? それともまだここにいる?」
人を皮肉ったような、案じているような、そんな声。
「私は――」
目をつぶると、まりいは少年に向かって告げた。
「私は、ここにいたい」
元々、声に導かれてこの世界へ来たのだ。フロンティアを見つけるといっておきながらやったことと言えば失恋だけ。
それに、先ほど見たものが現実だとしたら、その場所にはもどりたくない――それがまりいの正直な気持ちだった。
まりいの答えを、少年は黙って聞いていた。
「……忠告はしたからね」
それきり、声が聞こえることはなかった。代わりに訪れたのは静寂と闇。
帰らなければ。
闇の中でまりいは思う。
帰らなければきっと心配している。青藍やユリ。
それに……彼が待っている。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ショウ……」
まりいの漏らした声に、黒髪の少年は――大沢は、顔を向けた。
顔を近づけて、もう一度声の正体をつきとめようとするも、少女は一度寝返りをうったきり何も話さない。
頭を二、三度ふると、近づいてきた足音に姿勢を正す。
この時、まりいの身に何が起きているかなど、大沢にわかるはずはない。
「今は落ち着いてるみたいです」
そして大人達につぶやいた大沢の声も、まりいに聞こえることはない。