佐藤さん家の日常

その5

 あの子を見つけたのは昼過ぎ。

「なつくーん」
 日曜日。ドアの前で名前を呼ぶ。
「なーつー」
 返事はない。もしかして休みなのに真面目に勉強?
 ドアを開けて部屋の中に入ってみる。
「もう昼だよ。起きないと襲っちゃうぞ」
 いつもなら問答無用の足蹴りがあるはずなのに、それがない。
 見渡しても、なつくんの姿がない。いつもなら机で勉強してるか何かしてるはずなのに。
「……夏樹?」
 三度名前を呼んで見渡すと、ようやく返事が返ってきた。
 赤く上気した顔。時おり苦しそうにコンコンと咳をしている。もしかしなくてもこれは――
「何」
「滅多にお目にかかれない光景だと思って」
 なつくんが部屋から出てこない理由。それは俗に言うカゼだった。
「俺だって風邪くらいひく」
 確かに。なつくんはバカじゃない。でも健康管理もおこたらないはずじゃ? そのへんを指摘すると『春とは違う』と切り返してきた。
「ひどいなー。僕らって元は一つよ?」
 なんてことを言いながら顔を近づける。
 ……あれ?
 おかしい。いつもなら『それを言うなら一卵性。気色悪いこと言うな』って突っ込み、もしくは蹴りがくるはずなのに。
「…………」
 改めて顔を見る。
 玉のような汗。目もどこか虚ろだ。
「もしかして重症?」
 今度は無言で寝返りをうつ。どうやら答える気力もないみたいだ。
「今日はメガネかけてないんだ」
「寝る時くらいさすがにはずす。そいつネジゆるんでるし」
 手にとってみると、確かに右側のレンズとフレームがぐらぐらだった。
 メガネをかけてみると、視界がほんの少しぼやけて見える。
 僕の視力は両眼1.5。なつくんの視力は0.7。このくらいならかけなくてもいいのにって一度言ったことがある。でもなつくんは個人の自由だって買っちゃったんだっけ。
「どう? 似合う?」
 メガネをかけたまま顔を近づける。
 自分で言うのもなんだけど、僕らはよく似ている。黒みがかった茶色の髪に同じ色の目。背だってそんなに変わらないし、メガネがなかったら見分けられる奴はまずいない。
「なつくーん」
 さらに顔を近づける。でもなつくんは目を閉じていた。どうやら本当の本気でやばいみたいだ。仕方ないか。
「ゆっくり寝てなよ。夏樹」
 毛布の上から二、三度軽く叩くと、僕は家から出ることにした。


 僕だっていつも遊び呆けてばっかりじゃないし、弟のことを心配しているのだ。
 なつくんはメガネを大事にしてる。だったら僕がなんとかしてあげるしかないでしょう。
「薬、薬……っと」
 メガネを片手に薬局の中を動き回る。
 まずは本人の体調管理が先決。ああ見えて、なつくんは病院に行きたがろうとしない。だったら薬を買ってくるしかない。
 目的のものは簡単に見つかった。でも在庫は一つだけ。あと一歩遅ければ、他の店をあたらなきゃいけないところだった。
『これください』
 ん?
 聞き間違いじゃなければ僕の他にもう一人の声が聞こえた。
「あれ? 佐藤先輩?」
 さらに言えば、それは女の子だった。
「ええと、君は?」
 ショートにした黒い髪の小柄な子。同じ色の瞳を持つその子は、僕にむかって頭を下げた。
「一年の草薙です」
 先輩ってことは同じ学校ってことか。こんな子、一年にいたっけ?
 頭をひねっていると、その子はさらに頭を下げてこう言った。
「お願い先輩。この薬ボクにちょうだい」
「ええと」
 まいったな。
「お姉ちゃん、カゼなんだ。妹としてこれくらいはしなきゃ」
 僕も兄としてこれくらいはしようって思ったからここに来たんだけどな。
 そう思っていると、今度は下げていた頭を上げてこう切り返してきた。
「……もしかして、先輩もカゼ?」
「え?」
「だってこの前、先輩がお姉ちゃんの代わりに犬助けてくれたっしょ?」
「ええ?」
 そんなこと初耳だぞ? そもそも誰のこと言ってるんだ?
 自分のことを『ボク』と言う女の子はさらに言葉を重ねた。
「寒い日にずぶ濡れになって自分の代わりに川の中に入ってくれたってお姉ちゃん嬉しそうに……とと」
 なるほど。そういうわけか。
 数日前、傘を持っていったにもかかわらず、なつくんはずぶ濡れで帰ってきた。何をしたのかと聞いても『春には関係ない』の一点張り。風呂には入ったみたいだけど結局風邪ひいちゃった……と。
(あのなつくんがねぇ)
 意外だと思う反面ちょっとだけ嬉しくなった。
 あの人間関係、とりわけ女の子関係に乏しい夏樹がそういうことをしたと思うと兄として鼻が高いってもんだ。
 爆弾発言を聞かせてくれた女の子は、さらに爆弾発言を続けた。
「このことは内緒ですからね。佐藤夏樹先輩」
「えええ!?」
「だってメガネ持ってるし」
 女の子の視線は、僕の右手――メガネケースに注がれていた。
 この時点でわかったこと。
 なつくんは草薙先輩の代わりに川に入り、それが元で風邪をひいた。
 その先輩もカゼをひいて妹のこの子が薬を買いに来た。
 そして僕は、この子に弟の夏樹と間違われている……と。
 ん?
「草薙って、草薙皐月(くさなぎさつき)先輩!?」
「学校で草薙ってボクとお姉ちゃんしかいないと思いましたよ?」
 皐月先輩なら知ってる。生徒会の会計やってて、女の子にものすごく人気がある人だ。男装の麗人ってわけじゃないけど、チョコレートの数は全学年五本の指に入るとか入らないとか。
(あのなつくんがねぇ)
 今度はさっきと違ったつぶやきをもらす。どうやら弟は兄の知らないうちに大人の階段を着実に上っているみたいだ――
「先輩もカゼならしょうがないや。やっぱり返します」
 思考は彼女の言葉によって元にもどった。そうだった。弟の交友関係も気になるけどまずは当人の健康管理が第一。
 しかも目の前の女の子は僕を自分のお姉さんの恩人だと思ってる。ならば、兄としてやれることはただ一つ。
「先輩?」
「悪い。ちょっと考え事してた」
 振り向いて、手に持っていたメガネをかける。
「俺は大丈夫だから。草薙に譲るよ」
 夏樹のふりをするのはそんなに難しくない。演技力だって少なくともなつくん以上にある。だったら弟のふりをしてあげるしかない。
「でも――」
「本当に大丈夫だから。お姉さんに持っていってあげて」
 ごめんなつくん。カゼ直すのはもう少しタンマ。代わりに妹さんにいい印象植えつけとくし、メガネもちゃんと直しておくから。
 女の子はちょっとだけ迷った顔をした後、『じゃあお言葉に甘えます』と言った。


「じゃあ先輩もお兄ちゃんの薬買いに来たんだ」
  薬屋を出て三十分。僕らはなぜか喫茶店にいる。
 『譲ってもらったんだもん。お礼されてください!』とは本人の弁。薬代よりもこっちの方が高そうな気もするのは一体。
「春が珍しくカゼひいたから。たまには兄弟らしいこともしてあげないと」
 本当はカゼひいてるのはなつくんだけど。
 おごってもらったコーヒーを飲みながら、目の前の女の子に言う。
 女の子の名前は草薙諸羽(くさなぎもろは)。同じ私立桜高校に通う皐月先輩の妹さんで、僕より一つ年下の一年生。最近までずっと休学してたとのこと。どうりでわからなかったはずだ。
「わかるそれ!」
「え?」
「時々ケンカもするけど、大切な家族だもん。病気になったらやっぱり心配するっしょ? ボクだったら絶対するもん」
 今まで食べていたアイスクリームのスプーンをぴこぴこさせながらこの発言。どうやら考えていることは同じみたいだ。
「お姉さんのこと好きなんだね」
「自慢のお姉ちゃんだから。お母さんもお父さんもおじいちゃんも弟も。佐藤先輩もそうなんでしょ?」
「え?」
「真剣な顔して薬選んでたから。お兄さんのこと大事なんだなーって」
 可愛い顔して、的確なことをずばずばと突いてくる子だ。しかも言葉に無駄なものが一切ない。
「……そうだね」
 だから、言葉はすんなりと出てきた。
「なつくんはしょうがないから。だから僕がしっかりしないと」
 夏樹はしっかりしてるけど不器用だから。だったら片割れの僕が支えていくしかない。
 何より長男だしね。
 もっとも、そう言ったら『余計なことは言うな』って次男にとやかく言われそうだけど。
「『なつくん』?」
「……あ」
 今は僕がなつくんだった。
「違う。春樹のこと」
 慌てて咳払いをすると、口調を弟のものに変える。
「春はどうしようもないから。だから俺がしっかりしないと。それよりも、草薙先輩に妹さんがいた方が驚きだ」
「ボク、よく道に迷うから。だから学校に来ることも少なかったんだ。ちゃんと地図持っていってるのに」
「ああ、わかる。それ」
 これくらいの役得はあっていいだろう。
 僕と妹さんの話は夕方まで続いた。
「あ。もうこんな時間」
 時計の針は四時をまわっていた。どうやらそうとう話しこんだみたいだ。
「今日は俺のおごり。君も帰った方がいいよ。お姉さんが心配なんだろ?」
 レシートを手に取り笑みを浮かべる。本当はウインクでも飛ばしたいところだけど、そんなことしたら間違いなくなつくんに怒られる。
 それに、これ以上ボロを出さないうちに退散するに限る。僕もなつくん心配だし。
 そう言うと、妹さんは『はい』と言って笑った。
「今日はどうもありがとうございました。たくさん話せて楽しかったです」
 なんとか妹さんには無事、佐藤夏樹だと思わせることができた。やった。これで兄の面目がたった――
「……ん?」
「噂より全然素直で面白いですね」
 これはほめ言葉としてとってもいいよな? そう思って曖昧に笑うと視界がゆらいだ。
 やっぱりメガネはきついかも。そう思ってると、
「んん?」
 顔が近づいてきた。と思ったら、メガネをはずされた。
「慣れないことはしない方がいいですよ。視力悪くなっちゃうから」
 いたずらっぽく笑うと、妹さんは頭を下げた。
「勘違いしてごめんなさい。お姉ちゃんには弟さんは大丈夫だって伝えておくから」
「え!?」
 ということは――
「またね。佐藤春樹先輩」
 ぶんぶん手をふると、妹さんは遠ざかっていった。
「……やられた」
 騙すふりして逆に騙されたってことか。
 しかもあっちの方が一枚も二枚も上手だ。
 今日は一日中驚きの連続だ。なつくんのことも、皐月先輩のことも。しかも先輩にあんな妹さんがいたとは。
「……諸羽(もろは)ちゃん、か」
 妹さんの名前をつぶやくと、今度こそ本来の目的を果たすため、メガネ屋に向かった。

 こんな感じで僕らの一日は過ぎていく。
 なつくんのカゼは一日で治った。『復活おめでとー』って抱きつこうとしたら足蹴にされた。兄の心弟知らず。
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