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遠い日の約束

 現実はそう甘くない。
 よく耳にはするけれど、本当に甘くない。
『絶対忘れないから』当時はそう言っていても、時がたつにつれて忘れてしまう。それを咎めることは誰にもできない。人は忘れていく生き物だから。
「休んでる暇があったらちゃんとあやす!」
 ――なんてカッコつけててもしょうがない。
「ほーら。高いたかーい!」
 妻に促されて慌てて子供をあやす。ほら。結局こんなもんさ。
 付き合うようになって結婚して。初めの頃は新婚ムードがただよっていたものの、時間がたつにつれ、そんな雰囲気はどこへやら。子供ができたらさらにそんな事とは縁遠く。久しぶりに早く家に帰ってきたらこれだ。
 あの頃が懐かしい。二人して『あーん』とかやってたんだ。それが今じゃどうだ。そんな素振りは全くなし。
 でも今日だけはそんなわけにはいかない。なんたって今日は特別な日なのだから。
「あのさ」
 子供をベッドに寝かせた後咳払いを一つ。つつつと彼女の後ろに立つ。
「何?」
 台所に立つ彼女は俺の方なんか見向きもしない。その方が好都合と言えば好都合だけど、それはそれで悲しいものがある。
「これ覚えてる?」
 そう言って見せたのは右手。
「手がどうかしたの?」
「違う。見てほしいのはこっち」
 右手、正確には小指を彼女の前に突きつける。 さすがにこれならわかるだろ。
 包丁を持っている手を止め見つめ合うこと数分。
「ささくれができてるわね。男の人でもちゃんと手入れしたほうがいいわよ?」
「……もういいです」
 すごすごと子供の元に戻る。もう、いいや。きっと記憶になんかこれっぽっちも残っちゃいないんだ。
「お前の母さんは薄情だよなー」
 なんてことを言ってみても眠っている子供にはまるで意味がない。所詮お前もあいつの子か。
 トントントン、と包丁の音だけが部屋に響く。
「今日だったわよね」
「何が?」
 子供の頬をつつきながら今度は俺が聞き返す。
「結婚記念日は二人きりで祝おうって。約束してたじゃない」
 ぐるっとふりかえると、そこには料理を手にした妻の姿があった。
「いくつになってもこの日のことは忘れないって無理矢理指きりさせられたもの。忘れられるわけないでしょ」
 そこにはいつもと変わらない表情で告げる妻の姿があった。
「三人になっちゃったわね。でもそれはそれでいいでしょ。にぎやかな方が楽しいから」
 テーブルにはたくさんのご馳走。今までつくっていたのはこれだったのか。
「指きりじゃなかったの?」
「……いや、そーだけど」
 小首をかしげる彼女に小さく一つうなずく。
 なんだ。ちゃんと覚えてるじゃねーか。 表情変わらないからわかりにくかったぞ。
「まどか」
「だから何」
 振り向きざまにぎゅっと抱きしめる。片手には花束。この日のために準備しておいたもの。
「俺、お前と結婚できてよかった」
「はいはい」
 さっきのは訂正。現実は少しだけ甘いかもしれない。
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