●● つかれてるひと。 --- プロローグ ●●
ちりん。
風にゆられ鈴の音が響く。
そう言えば去年かったものだった。なんとはなしに出かけ夜店で買ったものだ。
風鈴の音色はきれいで。ほんの少しだけ暑さを和らげてくれる。だけども実際の温度までは和らげてはくれないわけで。
「はぁ」
息をつくと、背後から白い手がのびてきた。
「どうぞ」
手に添えられていたのは湯のみ。その中には麦茶。御丁寧に氷まで浮かべてある。
「こりゃどうも」
遠慮なくうけとり口にする。乾いたのどに冷たい感触が気持ちいい。一気に飲み干すと、白い手の主が満足げに微笑んだ。
「暑い時には冷たいものが一番です」
手の主は浴衣を着ていた。
紺色の浴衣。花の模様がほどこしてあるそれを黄色の帯でしめ、ひとつに結いあげた髪は百合のかんざしでとめてある。
浴衣姿の女性。この時期ならさして問題もないだろう。この時期なら。
だが、これが一か月続くなら。
再度息をつくていると、彼女は心配そうにこちらの顔をのぞきこんだ。
「つかれてるんですか?」
空になった湯のみを手にとりながら問いかける彼女。眉根を寄せる姿は愛らしく。少しだけ、今の状況が和んだ気がした。
けれども、鈴の音も麦茶も彼女の表情も。今の状況を根本的に解決してくれるわけではなく。
彼女を見つめること数秒。俺は三度目の息をついた。
「うん。つかれてる」
首肯すると、彼女は心底心配そうな顔を俺に向けてきた。
「何か作りますから待ってて下さい。疲れたときは甘い物が一番です」
湯のみを手にしたまま、慌ただしく彼女は遠ざかっていく。ただし、ぱたぱたといった足取りや足音は全く聞こえない。
違う。ぱたぱたじゃない。こういう時はすうっと、だ。
視線を浴衣のすそにやるも、そこから先は何も見えず。遠のく後ろ姿に四度目のため息。
彼女には足がなかった。
そりゃそうだ。
俺は確かにつかれている。
つかれて――とり憑(つ)かれている。
そもそも幽霊に足はあるのか。
足はないにしても手は動かせるのか。
そもそも、なんでこんな状況になったのか。
思い起こせば本当にきりがない。
「新(あらた)さん?」
彼女がさらに心配そうな顔をする。
彼女――いつまでも『彼女』と呼ぶのは失礼か。
「さや」
「なんです?」
向き直って彼女に視線を合わせると。俺はしごくまっとうな問いかけをする。
「なんで足はないのに手は動かせるんだ」
『ああ』とあいの手を打つと、彼女は、さやはこう答えた。
「なんとなく、です。動けって思ったら、いつの間にか動かせるようになっちゃったみたいです」
なんとなくときたもんだ。
「でも本当に手を動かしているわけではないので。念力みたいなものと考えてもらえれば」
次は念力とくるのか。
「わたし、他のみなさんとはちょっと違うみたいですから。だから人と少しだけ違うことができるみたいです」
それですべてがまかり通るなら、なんの苦労もない。
そんな思いをかみしめながらイスを離れる。
「どこへいくんです?」
「買い物。冷蔵庫の中が空っぽなんだ」
甘い物作ってくれるんだろ? そう言うとさやは嬉しそうにはいと微笑んだ。
ちりん。
風鈴は相変わらずゆれていて。
こいつと出会ったのもこれくらいの暑さだったよな。
そんなことを考えながら俺は大きくのびをした。
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