羅刹国(らせつこく)


 あの島に近づいてはいけないよ。あそこには鬼が住んでいるんだ。
 いいかい。もう一度言うよ。あの島には近づくな。鬼に食べられてしまうからね。

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 気づいた時にはもう、海の中だった。
 視界の先に小さな船が見える。誰かが何かを叫んでいるということも。わかっている。無理を言ったのは他ならぬ自分自身。心配しないであなた達は村へ帰ってほしい。
 水を吸った服がひどく重い。身動きもとれないまま私はここで死んでしまうのか。心願も叶わぬまま、こんなところで。
「……?」
 ふいに差し出された浅黒い腕。手をとるのに時間はさほどかからなかった。
 もしかすると死神の使いかもしれない。それでもでつかんでしまったのはきっと、生への未練があったからだろう。神様でも死神でもなんでもいい。願わくば私をあの場所へ。
「連れて……いって」
 そこで私の意識は完全に途切れた。

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 ――らせつってなぁに? ばば。
 額に角と大きな牙を持つ異形の魔物のことさ。おまえ達がわかるように言うなら鬼と呼んだがいいのかもしれないね。
 ――おにって、ばぁばが近づいちゃいけないって言ってるオニ? あの島にすんでるオニ?
 そうだとも。そいつはとても乱暴で岩だって簡単にくだいてしまうんだ。子どものおまえなんか、すぐに見つかって食べられてしまうよ。
 ――でも、大きなチカラをもっているんでしょ? そんな鬼がたくさんいるお国があるんでしょ? そこに行ったらわたしのおねがいも叶えてくれるかな。

 大きな力。
 そんな力が本当にあるのなら。私が叶えたい願いは――

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 目が覚めた時、私は男の肩の上にいた。
 正しく言えば、男にかつがれていた。
 片腕で、とるにたらない荷物かのように。私をかついだまま、男は無表情でずんずんと歩いていく。自分の身に何が起ったのかわからなかった。事態をようやく把握できたのは、かつがれたまま洞穴の中に連れてこられた時だった。
「離せ!」
 身をよじって逃げようとするも相手の力が強くてなかなか離れることができない。手足をばたつかせ男の顔をなぐりつけると、ようやく男の足が止まった。
「それだけ動ければ問題ないな」
 あっさりと地面におろされると同時に軽い立ちくらみが体をおそう。どうやら長い間気を失っていたらしい。
 立っていられなくて地にへたりこむと男が近づいてくる。何をされるのかと身構えると頬にぬれた手ぬぐいをあてられた。途端にはしったのは鈍い痛み。
「血は止まったようだな。これで冷やしておけ」
 淡々とした口調。そこでようやく自分が怪我をしていることに気がついた。
「危ないところを助けていただいてありがとうございました」
「助けたつもりはない。飯の準備をしていただけだ」
 そう言って腰につるしていた三匹の魚を串刺しにして火にかける。視界に映るのはたてかけられた釣り竿。よくよく聞けば釣りをしている最中に海面をただよう私を拾ったらしい。
 ぱち、ぱち、ぱち、と。薪がはぜる音がする。時折串を返して火加減を調節して。焼き上がるまでの間、目の前の男をじっと見つめる。墨色の着物からのぞくのはつかんだ時と変わらぬ浅黒い肌。小豆(あずき)色の髪は首の後ろで一つにくくられている。ここまでなら日に焼けた大柄の男でよかったのかもしれない。けれども人間と明らかに違うのは、とがった耳と髪からのぞく二本の角だった。
「あの」
 呼びかけに返事はない。代わりに焼き上がった魚を手渡される。どうやら食べろということらしい。
「あなたは鬼なんですよね」
 串を手に、問いかけではなく確信をこめて目の前の男を正視する。口は閉じられているから牙は見えない。けれども何よりも、気を失った人間一人を片腕で運んでこれるほどの強くて大きな体躯に角。私が用いる知識の中でこのような姿に当てはまるものはただ一つしかなかった。
「だとしたら、何だというのだ」
 否定の声はなく、ただ黙々と魚にかじりつくのみ。おそらく肯定ととっていいのだろう。
 目の前にいるのは浅黒い肌の男――鬼。だったら私ができることは。
「お願いです! 助けて下さい!」
 突然の懇願に鬼は食べるのをやめ、面食らった顔をしていた。異形にもこのような表情ができるのか。妙なところで感心しながら言葉を続ける。
「ただでとは言いませぬ。私を食して下さい。さすればあなた様の空腹も満たされましょう」
 もっともやせ細った私の体では美味しいとは言い難いかもしれないが。
「死んでもいいというのか」
「かまいません。その代わり、私の願いを叶えてください」
 眉をひそめた鬼に私はとつとつと身の上話をはじめた。ここから海を隔てた小さな村。そこには体の弱い老婆がいる。私の育ての親と呼ぶべき人で、本当の親は子どもの頃にとうに死んだ。それでも婆のおかげでここまで生きのびることができた。
 ひと月前に老婆は大病を患った。高額のお金をはたいて買ってきた薬を飲んでも病気は日に日に悪くなるばかり。三日前、とうとう医者にもさじをなげられた。助ける手立ても万策つきて文字通り途方にくれて。そんな時に脳裏をよぎったのは子どものころに聞かされた異界の話だった。

 遠く遠く海を隔てた場所。そこにはどんな夢や願いも叶える国があるという。
 遠く遠く海を隔てた場所。そこには多くの羅刹(らせつ)が、鬼が住んでいるという。
 そこに住んでいる鬼は人を食らうという。
 そこに住んでいる鬼は人の命と引き替えに、途方もない願いを叶えてくれるという。ある旅人は自身の命と引き替えに憎き敵国を一夜にして焼け野原に変えてしまったと聞く。それほど大きな力があるのなら人ひとりの命を救うことくらい造作もないはず。

 無論、私だって死ぬのは嫌だ。それでも我が身一つで大切な人の命が救われるのなら微塵もおしくない。
「ここは羅刹国(らせつこく)なのでしょう? だったら婆(ばば)の病を治してください」
 羅刹国。それが婆から聞かされていた異界の名前だった。そして、海から見える島の灯(あかり)が国への入口だということも。
 村人に無理を言って灯の見えるぎりぎりのところまで船を出してもらって。入口を見つけようとして身を乗り出した矢先に海に落ちた。天の導きなのか全くの偶然なのか、こうして鬼の元へたどりつくことができたのだ。だったら自分の命と引き替えにしても願いを叶えてもらわなければならない。今は一刻の猶予も許されないのだから。
 決死の覚悟で告げたのに返ってきた声は辛辣なものだった。
「だれがそんな与太話を考えついたんだ」
 眉間のしわをさらに深くして。
「お前の聞いた異界とやらはこんなに小さな島なのか」
 うろんげな視線の後に深い深いため息ひとつ。確かにここまで来るまでに目の前の鬼以外、異形はおろか動物さえも遭遇しなかった。こんな場所が島ではあっても異界であるはずがない。
「お前の見たものはおそらくこれだろう」
 追い打ちをかけるように目前にしめされたのは先刻まで魚を焼いていた薪の残り火。鬼が燃えかすに手をかざした拍子に洞穴全体がまばゆい光に包まれる。巨大なそれは、船から見た灯とまったく同じものだった。彼曰く、この薪は特殊なもので調理だけではなく照明にもなるらしい。加えて教えられた。島は日が暮れるのが早いため外に出る時はいつでも薪を松明(たいまつ)代わりに持ち歩いていると。だが所詮はは薪。物を燃やしたり暗いところを照らす灯火になっても異世界の入り口にはならない。
 最後に教えられたのは島の周りには彼以外の鬼や人間はいないという事実。これらの事柄から導かれるものは。
「ここは羅刹国じゃない。ただの離島だ」
 国の存在をまっこうから否定されて。こんな灯を頼りに私は身を投じたのか。悔しさと不甲斐なさで視界がうっすらとにじむ。
「村に戻ってやれ。与太話を信じるよりも、少しでも長く側にいてやることのほうがよほど婆のためになるのではないか」
 正論を吐かれて押し黙る。そんなことは百も承知だ。
「それでも!」
 頬からつたうものを手のひらでぬぐう。今だって、本当なら一日でも早く故郷に帰りたい。けれども事態は日々後退していくばかり。与太話でも信じなければ他に救う手だてがないではないか。
 婆は身よりのない私を育ててくれた。今度は私が助ける番。
「私は行きます」
 食べ終えた串を置いて紫色の風呂敷を手にする。旅立つ際に身のまわりの私物をありったけつぎ込んできた。
「どこへ」
「本物の羅刹国を探します」
 ここが羅刹国でないのなら、本物の羅刹国へ行って婆の病気を治してもらう。少なくとも本物の鬼がいることがわかったのだ。ほんの少しでも希望があるのなら、それにかけるしかない。
 立ち上がって頭を下げて洞穴から出ようとするも。
「どいてください」
 鬼に進路をふさがれて立ち往生させられた。
「おまえは俺が怖くないのか?」
「婆の病を治すことが先です。怖がる時間などありませぬ!」
 はじめは確かに怖かった。だが多少人とは異なるものの人語を解する者であり、なによりも大切な人の命がかかっているのだ。羅刹ではない鬼などにかまっていられる時間はない。
 反論されるとは想定外だったのだろうか。まばたきをした後、鬼は私を凝視していた。互いににらみあう形になってしばしの時間が流れた後。
「俺はここで暮らすようになって十年たつ」
 ふいに最後に残った魚を口にする。意図がつかめず思いあぐねていると。
「いい加減、島の暮らしにも飽いた」
 食べ終わった串を地に放り、代わりに松明を手に歩きはじめる。灯りが照らすのは穴から反対の方角の路。それはまるで、行きたいのならついてこいと誘っているようで。
「一緒に探してくださるのですか」
「暇つぶしにはちょうどいい材料だ。それに言っていただろう?」
 再び台詞の意図がわからず小首をかしげると。
「連れて行ってと」
 目の前の鬼が。初めて笑った――ように見えた。

 こうして、私と鬼の異界探しが始まった。



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