Novel | Home

Sel'ge Liebe auf den Mund;

 知ってた? あれってする場所にも意味があるんだって。
 ――何の話?
 まどかなら詳しいんじゃない? 彼氏がいるんだもん。知ってておかしくないよね。
 ――だから、何の話?
 またまた。あれの話よ。あ・れ。

「キスしてください」
「帰って」
 それは授業が始まる数分前のこと。
「彼氏に向かってそれはあんまりじゃない?」
「今すぐ帰って」
 目の前にいるのは幼なじみの顔だった。
 黒髪黒目のどこにでもいるような男子。周りと違うのは瞳が子犬のように輝いていることだけ。しっぽがあれば間違いなく元気にゆれていることだろう。
「だってさあ。このごろやってないし。たまには朝からでも」
 その朝から何を言ってるんだこの男は。公衆の面前だということを少しはわかってほしい。
「ハニーだって俺と離れるのさみしいだろ?」
 その呼び方もやめてほしい。時代錯誤にもほどがある。そもそも放課後になれば嫌でも顔を合わせるのだ。さみしくもなんともない。
「いいだろ? な」
「かつ。今の時間は?」
 彼の言い分に応える代わりに冷静かつ迅速な質問をする。
「八時三十八分」
「一時間目が始まるのは?」
「……八時四十五分」
「わかったなら教室にもどって」
「ええー。でも」
 言いつのる声と私の間にわって入ったのは始まりを告げるチャイムの音。
「ほら。とっとと教室にもどりなさい」
 さすがに授業をおしてまでとはいかなかったんだろう。彼は二、三度名残惜しそうに振り返った後、とぼとぼと帰路につく。もし本物の犬だったら、今度はしっぽがだらんと垂れ下がっていそう。そんな後姿を遠目に私は深々と息をついた。
 私、霧島まどか(きりしままどか)と『かつ』こと大沢勝義(おおさわかつよし)は家も隣、誕生日も一日違いという見事なまでの幼なじみだ。最近はそれに恋人という項目まで追加されてしまった。不本意だけど。
「でもさあ。なんでそう嫌がるかな」
 昼休み。お弁当を食べながら友人は言う。
「嫌って何を」
「あれだけ求められてるんだもん。女冥利につきるでしょ。一度や二度くらい応えてあげたって」
「変なこと言わないの!」
 大げさにいう友人の口を慌ててふさぐ。即座に周りを見回したけど、幸いなことにクラスメートはそれぞれ自分のおしゃべりに夢中で気づかれることはなかった。
「それくらい、してあげればいいのに」
 手を離すと、友人はそう言ってにっと笑う。
「昨日のあれが気になっちゃった?」
「そうじゃなくて」
「じゃあ、単にまどかが奥手すぎるだけか。あんまり片意地はってると彼に嫌われちゃうよ?」
「……もういい」
 明らかにおもしろがっている友人をよそに、私は黙々と箸をすすめた。

 それくらい、してあげればいいのに。

 帰り道。友人の言葉が脳裏に浮かぶ。そんなには奥手ではない、と思う。あくまでも主観的にみて、だけど。じゃあどうして嫌かというと。
「ハニー」
 聞き慣れた声に眉根を寄せる。現れたのは見知った男子の姿。
『ハニーはやめて』
 私とかつの声が見事に重なった。
「そう言うと思った」
「思ってるなら言わないで」
 あきれる私とは反対に幼なじみはそう言ってけらけら笑う。一体何がおかしいんだか。
 ひとしきり笑い終えた後、かつは私に向かってこう言った。
「一緒に帰ろ。それくらい、いいだろ?」
 断る理由はない。断ったとしても何度でもしつこくついて回るのだ。そうじゃなくても帰り道が一緒なんだし。
 無言で歩く私の隣をかつは笑顔で話しながら歩く。体育の授業でああだった、いつもなら売り切れの焼きそばパンが手に入っただとか。かつは男のわりにはよくしゃべる。その間、やっぱり私は無言だ。
 普段なら私も言葉を返している。でも今日はそんな気分じゃない。というよりも話せない。
 しばらくすると、かつの声に影がおちる。
「俺、なんか悪いことした?」
 隣で幼なじみがつぶやく。
「してない」
 ハニーと呼ばないで。ところかまわずはしゃぎまわらないで。
 子どもをしかる親のような文句ならたくさんある。でも今さらなので言わないでおく。この件に対しては、彼の言動に落ち度はない。落ち度というよりも、あるのは私の方なのだ。
 もし違っていたら。違っていなかったら。私は一体何を思うのだろう。彼は一体どう思っているのだろう。
 思考をめぐらしていると、ふいにかつの足が止まった。
「まどかは俺としたくないの?」
 それまでとはうって変わった強い眼差し。何を、とは聞くだけ野暮だろう。
 したい。とは言えない。したくないとも言えないけど。
 返事の代わりに首を横にふると、彼は怒ったような顔をした。
「じゃあ、なんで目を合わさない」
 言えないじゃない。それこそ今さらだし。
 それに。
「まどか」
 今度は肩を強くつかまれた。
「言いたいことがあるならちゃんと俺の目を見て言え」
 わかってる。本当に彼にはなんの落ち度もないのだ。
 これ以上彼が憤慨する前に白状したほうがいいだろう。
「笑わない?」
 そろそろと顔をあげると彼は真面目な顔でうなずいた。
「笑わない」
 表情を確認すると、耳元で理由を話す。話し終えるまでに時間はそれほどかからなかった。それはそうだ。そもそもの原因はとても単純なことなのだから。
 全てを話し終え、幼なじみの顔を見ると。
「……は?」
 案の定、彼はぽかんとした顔をしていた。だから言いたくなかったのに。
 昨日、友達と話していた時のことだ。

 知ってた? キスってする場所にも意味があるんだって。
 たとえば手の上だったら尊敬のキスで、額の上だったら友情のキス。
 頬の上なら厚意のキスで、唇の上なら。

「つまりは友達との会話が気になってキスできなかった、と」
「……笑えばいいじゃない」
 彼は表情を変えぬまま続けて言った。
「ましてや意識しすぎて目も合わせられなかった、と」
「だから。笑えばいいじゃない!」
 膨れっ面で告げると、彼は身をよじって笑い出した。
 だから言いたくなかった。というよりもしたくなかったのだ。
 付き合っているのだからキスくらい当然のこと。それはなんとなくわかる。でもそんな話聞かされたら気にせずにはいられない。気にしすぎてこんな風になるのは予想外だったけど。
 もし、彼のするものが私と違っていたら。もし、彼の気持ちが私と違うものだったら。そう考えると怖くなった。
 白状しよう。なんだかんだ言って私はやっぱり彼が好きなのだ。
 それにしても笑いすぎ。
「そこまで笑わなくても――」
 反論しかけた私とかつの影がふいに重なる。
 同時に触れたのは優しくて甘い感触。
「これだと、どういう意味?」
 子犬のような。ううん、いたずらっこのような笑みで笑う彼。対する私と言えば、顔が赤くなるのをとめられずにはいられなくて。
「帰る」
 それだけ言うと、なおも笑い続けている幼なじみを残し足早にその場を後にした。
「なー、どういう意味? 教えてよハニー」
 絶対わかって言ってるくせに。それでもしつこく聞いてくる幼なじみは徹底的に無視だ。

 彼がくれたのは、今の私と同じ気持ち。
 ――唇の上なら愛情のキス――



「Der Kus〜心に咲く花の名は」に提出したものです。
我ながらすごい甘甘。
Novel | Home
ヒトコト感想、誤字報告フォーム
送信後は「戻る」で元のページにもどります。リンク漏れの報告もぜひお願いします。
お名前 メールアドレス
ひとこと。
Copyright (c) 2010 Kazana Kasumi All rights reserved.