第八章「沙城にて(前編)」
No,11 目覚め
わかっていた。本当はずっと前からわかっていた。
見返したかったんじゃない。認めてもらいたかったんだ。
けど、現実はあまりにもあっけなくて。
けど、現実はあまりにも残酷で。
「彼の者に幸福を。彼の者に祝福を。彼の者に、願いを」
シェリアが口早に祈りの言葉を紡ぐ。共に現れるのは淡い光。
簡単な治癒術。空都(クート)の住人なら誰もが知っているもの。だけど、オレには使えない。
「ダメ。全然治らない」
公女様がオレの方を見る。その表情に浮かぶのは焦りと不安、絶望。当然だ。オレだって同じ顔をしてるに違いないんだから。
暗殺者との決闘が終わって数刻。余裕を見せて勝ったかと思いきや、目の前の男はあっけなく床に崩れた。
何が起こったのか。はじめは全くわからなかった。事態が深刻なものだと理解できたのは服に広がる血を目にしたから。
「彼の者に幸福を。彼の者に祝福を……」
シェリアに習い精霊の契約をつぶやいても傷はふさがらなかった。当然だ。オレは地球人なのだから。空都の術は空都の人間にしか使えない。オレに祈りの言葉は紡げない。
「なに、倒れたふりしてんだよ」
代わりに紡いだのはいつものへらず口。
「こんな傷ぐらい、どうってことないって顔してるのがアンタだろ」
『私はごくごく普通の神官――人間です』
んなこと今さら証明しなくてもいいだろ。むしろ人間じゃねえってところを証明するのがアンタだろ。あっけなさすぎて、これじゃ笑うに笑えねーよ。
傷口は小さいのに血はいっこうに止まらない。どうすればいい? 考えるんだ。あせったってどうしようもない。
「長く……いすぎましたね」
「しゃべんな……っ」
こんな時にこんなことを言う極悪人が、いかにもらしくて、イタすぎて。不覚にも涙が出そうになる。
服を脱がせて初めて気づく。アルベルトの体は傷だらけだった。
さっきの戦いでできたものじゃない、もっと前の――多分、オレと会うよりずっと前からの傷。しかも一つだけじゃない。二つや三つでもない。
こいつの裸を見たことは? 夏休みのプール。あいつも一緒にきたはずだ。
――いや、違う。
プールには来た。けどそれだけ。
涼しげではあったものの、あいつは服を着ていた。『実はアンタもカナヅチなんじゃないの?』って聞いたら『試してみますか』と真顔で返された。恐ろしくて続きが言えなかったから覚えてた。
「アンタ、本当に何者なんだよ」
つぶやいた声は自分でも驚くほど弱々しくて。
アルベルトの隣にはゼガリアが倒れていた。瀕死の重症だってのはわかる。けどそれだけ。人殺しがいけないだとか早く治療しなきゃだとか、そんなことを考える余裕もない。
目の前の事実を見つめるのに精一杯で、視界に留めることすらできない。どうやら自分が考えていた以上に、アルベルトという存在はオレにとって大きなものだったらしい。
おとぎ話でもなんでもない。こいつの言っていたことは全部本当だった。
『子供は身売りされていたんです。奴隷として』
言葉が指すものくらい、オレでもわかる。
オレと同じくらいの歳で、こいつは何を考え何をやっていたんだろう。
子どものころ、オレはこいつに会ったことがあると言ってた。こいつはオレを使って何をするつもりだったんだろう。
「ノボル!」
何度目かの呼びかけに顔を向ける。視界に映ったのは真っ青になった男の顔。息も絶え絶えで衰弱もいいところだった。
それが意味するものは。
一人目は一緒にいるのが当たり前だった。
二人目は優しい声をかけてくれた。
「……なに寝てんだよ」
ほんのささいな傷が致命傷になる。
何気ない一言が日常をくずすきっかけになる。
ボタン一つで全てが元通りになんかならない。そんなの、誰かが作った絵空事だ。
こんなにも、人はあっけなくいなくなる。
こんなにも、大切なものは掌からすべりおちていく。
わかっていた。そんなことわかっていたはずなのに。
「これじゃあ見返すものも見返せないだろ!」
動かないんだ。
呼んでも、ゆすっても目を開けないんだ。
赤いんだ。服も、手も。みんな真っ赤。
おれ、知ってるよ。つきとばされたもん。
おれが殺したんだよね。
おれがあんなこと言ったから。だから――
「偉そうに言っといて、これじゃヘタレもいいとこだろ!」
ねえちゃん。どうして動かないの?
どうして何もいわないの?
おれがやったの? あの時みたいに?
おれがこわしたの?
「悔しいだろ。弟子にさんざんひどいこと言われてんだぞ? 嫌なら目、覚ませよ。『あなたにだけは言われたくありません』って言えよ」
――また、おれは大切なものをなくしていくの?
「オレはまだ、アンタに認めてもらってない!」
おねがいです。
この世に神さまってやつがいるのなら。
おねがいです。
この世にキセキなんてものがあるのなら。
「……目、開けろよ」
もう一度、ねがわせてください。
大切な人を、これ以上うばわないで。
大切な人を、これ以上つれていかないで。
「開けろ!」
「やめてノボル!」
シェリアの静止の声も耳に入らない。涙にも気づいてやれない。それくらい、オレは動揺していた。
そこから先は記憶がない。
「我は地の娘に遣えし者」
おねがいです。
もしおれが――なら。
ほんの少しでも救いがあるのなら。
「地の契約により、力を解放す。心あらば、この声を聞き入れよ」
すべてをなくしてもかまいません。
おれは何も望みません。
だから。
「贄(にえ)は我が記憶。贄は我が心」
「ノボル……?」
もともと、おれは――だから。
おれはどうなってもかまいません。なんにだってなります。
だから。
「しっかりしろよ! アルベルト・ハザー!」
大切なものを、これ以上なくしたくないんです。
おねがいです。どうか。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
時々、自分がわからなくなることがある。何気ない日常をおくっているようで、ふとした時に記憶があいまいなんだ。
長い夢をみているような、そんな感覚。自分であって自分じゃないような。異世界に来るようになってから、その感覚は強くなっていった。
現実はどっちなんだろう。夢はどっちなんだろう。
もしかすると二つとも夢? それとも。
「アルベルトは?」
声をかけると公女様は無言で指をさす。視界に映ったのは白い無数の羽根。その上に横たわるのは金色の髪の男だった。
アルベルトの胸は上下に動いていた。さっきよりも数倍、格段に規則正しいものになった、と思う。
しばらくすると男のまぶたがうっすら開く。
「大丈夫か?」
碧眼が見開かれたのは、気のせい――であってほしい。
「クー……」
「安静にしてろよ」
言葉をさえぎるようにして語りかける。アルベルトは二、三度瞬きをした後、再び瞳を閉じた。
人間、誰しも認めたくないことがある。
「ノボル……」
空に舞うのは白い羽根。今までそんなもの、影も形もなかった。
羽根があるということは、その元となる在処(ありか)があるということ。
羽根の在処は。
「シェリア」
足を止めて名前を呼ぶ。公女様の姿は見えなかった。
後ろにいたのもあるけど、見たくなかったというのが本音かもしれない。戸惑いと恐怖にいろどられた顔をされるのが怖かったから。
認めたくなくても認めざるをえないのが現実ってやつで。『事実は小説よりも奇』ってことわざがあるけど、本気で現実は残酷だ。
「前に、変わってたって言ったよな」
視界に映る髪を一房つかみながら問いかける。
初めて言われたのは諸羽から。時空転移(じくうてんい)を使った時に髪と目の色が変わってたって。あの時は術の副作用だと単純に思っていた。
次に言われたのはセイルに連れ去られた時。シェリアを助けようとしてやられて、血を目の当たりにした途端、意識がなくなった。
そして今。
「これのこと?」
「…………うん」
弱々しく、けどはっきりと。公女様は事実を告げた。
オレは生粋の日本人。黒髪黒目。漆黒なんてたいそうなものじゃなく、ごくありふれたもの。髪の長さだってロン毛でもスポーツ刈りでもなく肩より上とごく普通。普通の高校生となんら変わりない。
はずだった。
「アルベルトに手をかざしたらその姿になったの。そうしたら血が止まって……」
「そっか」
本気で非・日常だよな。こんな日本人がどこにいるんだよ。
本気で非・日常だよな。こんなんで、一体どうやって学校行けってんだよ。
頭のすみでそんなことを考える自分に笑えてくる。
羽根の在処はオレ自身。さらにたどれば背中には今までになかった感触がある。
視界に映るようになったのは長くなったオレの髪。
『世界の色を宿した者は天からの遣い』
ゼガリアの言ったことは本当だった。
「冗談きついって」
鏡がないから本当のことはわからない。
目も髪と同じ色だとしたら、その色はきっと、青。
いや、青と言うには語弊がある。深い水色? それも違う。もっと身近にあって形のない色だから。
二つに宿るのは世界の色。それは空都――空の色。
髪と瞳の色に白い翼とくれば、思い当たるものはただ一つ。その意味するものは。
一体何の冗談だ? 誰かに問いただしたい。
問うべき相手は眠りの中。おまけに瀕死の重傷だとくれば、訊きたいものも訊けるはずがない。
「本当。冗談きついって……」
ここまでがオレの精一杯。
それだけ言うと、意識を闇に手放した。